出会い、出発、奈落

 人生に嫌気が差す瞬間というのは、きっとこういう時なんだろう。
 今までの人生を振り返ってみて、特に文句のある人生ではなかったとは思う。だが所詮そんなものは、ありふれた庶民特有の感情なのだろう。決して上を見ることがないから、日々満足できるのではないのか。
 上を見てしまうと、現状に満足出来なくなってしまうから。かといってそこに至れるわけでもないため、憤りを感じてしまう。
 そう今の俺のように。
 きっとそれが無意識にわかっているから、一般人は極力上には関わらないのだろう。賢い処世術だ。
 もっとも、情報の価値が底値ぎりぎりのこの時代、あらゆる媒体からあらゆる情報を手に入れられる。その中に上の世界、俗に言う「お金持ち」の情報もごまんとあるわけだが。だが所詮そこで得られる世界などでは、うらやましいな、ぐらいが関の山だろう。
 そこからさらに上に進めば…もう人生に嫌気が。というわけで話が最初に戻る。
 無意味に長くなってしまったが、今俺は間違いなく上の世界にいる。それもうらやましいなレベルなどではない。さらにその上、その中の頂点に限りなく近い場所にいる。
 ようするに、世界最高峰の「お金持ち」世界にいるわけだ。
「…帰りたい」
 思わず泣きそうになる。嫌気を飛ばすためにもと思い、詳細な分析を始めてみたものの、よけいへこむはめになってしまった。
「帰りたいなー…」
 もう一度愚痴った後、改めて周りを見渡してみる。
 一体この部屋に何人の人間が収容できるのだろう?少なくとも俺の家が50個は入るんじゃないか?お世辞にも広いとは言えないが、それでも3LDKはあるんだぞ。
 さらに絢爛豪華な装飾品の数々。今俺の横にある高そうな(鑑定眼なんか持ってはいないが、こんな世界だ、安いはずがない)壷。これ一つでも壊した日には俺の人生は借金返済で終わること間違い無しだろう。一体いくらするのだろうか。0が幾つ並ぶかなんて考えたくもない。
 ここにいる人間達にも目を見張るものがある。皆一様に、如何にもお高い服を着ていらっしゃる。目の前の年配の女性のドレス一着で、俺のスーツは何着かえるんだろうか。10じゃ済まなそうだ。これでも一張羅を着てきたんだが…
 装飾品だって半端じゃない代物ぞろいだ。俺がどう転んでも一生買えないだろう宝石の数々。もしうまいこと一つでもちょろまかせられれば、俺の残りの人生薔薇色に違いないだろう。
 そんな輩が何百人とたむろしている。しかもそれがこの部屋だけじゃなく、あと5部屋はあるというんだから驚きを通り越してあきれるしか他ない。こんなに広いと目的の人物に会うだけでも一苦労じゃないのだろうか。そんなこと気にならないのがこの世界の住人なのか。だとしたら余程暇なのだろう。羨ましい限りだ。
 いつもの癖で、この屋敷にかかっている費用、さらにこの催しにかかる食費、電気代等の費用、おまけに客達の服、装飾品などの値段を足したら一体どのぐらいの金額になるのか考えていた。
 思考が天文学的数に達しかけたところ、俺の目の前に女が二人歩いてきた。
「まーちゃん、そんな乱暴にさわってると壊しちゃうよ。そうなったら一生借金生活だよ」
 二人のうち背の低い方の女がまず声を掛けてきた。まったく、俺がさっき考えていたことと全く同じこと言いやがる。
 どうも考え事をしていたら無意識のうちにいじっていたらしい。金の計算してるうちに借金背負った、なんて笑い話にもならない。
「ああ、確かにその通りだ。懸命な御忠告ありがとう」
 俺は殊更渋い顔をして言い返した。それを聞いた背の低い女が軽く口を尖らせた。いかんいかん、ご機嫌を損ねたらしい。どうもいらついていたようだ。落ち着くために俺は胸ポケットから煙草を出して燻らせる。
 紫煙を吐くと少し気持ちが落ち着いてきた。俺は軽く首を振ると、なるべく優しげな声で話しかける。
「それで、お目当ての人には会えたのか?」
「うん、問題なくね。というかこの人なんだけどね」
 そういうとそれまで後ろに立って話を聞いていた女が前に出てくる。その顔にはにやけた笑いが浮かんでいる。どうやら俺達二人の話が愉快で仕方なかったらしい。それはそれはよかったですね。この女に対する俺の印象は一瞬で「嫌味な女」に決定された。
「どうも初めてお目にかかります。みやのうちまりかと申します」
 そういうと完璧な角度でのお辞儀をし、俺に名詞を渡してきた。そこには簡素な文字で「生体電脳演算機体学者、美弥之裡茉莉華」と記されていた。
 最初にこの名詞を渡されていたら、間違いなく名前が分からなかっただろう。
「珍しい名前でしょ。でも代々続く一族というわけでもないんですよ。恐らく近い先祖の誰かにものすごく見栄っ張りな人がいたのでしょうね」
 俺が熱心に名詞を見つめていたので、名前が気になったと思ったのだろう。まあ確かに気になってはいたが。しかしこうすらすらと説明出来るということは、今までに何度も似たような疑問を待たれたということか。そりゃそうか。
 いやむしろ一般人は名前より肩書きの方が気になるのだろうが。
「何か偉そうな名詞でしょ。字面だけで大概の人はひいちゃうからなるべくシンプルにしてるんです」
「まあ、知らない人からしたらそうでしょうね」
「反応が薄いところを見ると、あなたはそれなりに知識があるのですね」
 そういうと茉莉華は俺を興味深そうに見てきた。まるで舐め回すようにつむじからつま先まで見つめる。値踏みされているようであまりいい気分ではないが、これが学者という生き物なのだから仕方ない。
「だってまーちゃんは私のパートナーなんだよ、当たり前じゃない」
 背の低い女がフォローを入れる。それを聞いて茉莉華はそうだったといって顔をして軽くうなずく。意外にお茶目さんらしい。少し俺の印象が良くなった。嫌味な女から、研究馬鹿のお嬢様に格上げだ。どちらにしろ本人には口が裂けても言えないが。
「そうでしたね、あなたは世界中の人間が羨ましがる立場にいるのでした。どうです、世界の一端を握っている感想は」
 また嫌味な笑顔を浮かべて聞いてくる。もうそんな反応は慣れっこなので、ぼちぼちですよと軽く受け流した。
「まーちゃんは意外に欲がないからね。時々私も何でパートナーになったのかわからなくなるよ」
 大きなお世話である。これでも夢はあるんだぞ!ただ人に言えるような大それたものではないが。
「だからこそではあるのでしょうね、これが欲望の塊のような人物なら即刻消されてますからね」
「今のところは五体満足ですから」
 俺は無表情に言葉を吐く。正直疲れてきた、一体この女の目的は何なのだろう。
「この人なら問題は無さそうです。良かったですね凛さん」
 そういうと女性二人は顔を見合わせ笑った。俺には何がなんだかさっぱりわかっていない。ただこの上なく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。
「よかったねまーちゃん、一緒に行けるよ」
 凛は満面の笑顔を向けてくる。だから俺には何がなんだかわからないんだって。
「それでは明後日出発なので準備をしておいてくださいね」
 出発?準備?なんのことだ、大体明後日なんて早過ぎないか。
「楽しみだね、まーちゃん」
「…推測するに、どこかに旅行にでも行くのかな凛さん…」
 顔が引きつってくる。冷や汗が流れ始めた。生まれてこの方嫌な予感だけは外したことはないのだ。
「うん、暁の眠らぬ島までだよ」
 凛は本日最高の笑顔を見せる。その横で茉莉華も最高の笑顔を見せている。まったく二人とも何て魅力的なんだ、惚れちまうじゃないか。そんなことを考えながら俺の意識は黒く染められていった。
 お願い夢なら覚めて。