きっかけ、そして予感、あるいは必然
1
一面青い世界が広がっている。時折風に揺れる自分の前髪の黒以外、目の前には青しか存在していない。
こんなとき人は自分がちっぽけな存在でしかないと自覚するのだろうか。そういえば地球を宇宙から見ると、必ず誰しも青いとしか言わない。そして己の矮小さを実感する。人類にとって青は広大であるというイメージと共に、卑屈さの象徴なのかもしれない。
よしこれからは青は着ないようにしよう。ただでさえ毎日嫌というほど自らの矮小さは感じているのだ、これ以上惨めになりたくない。なんたって俺のそばには常に宇宙のような存在がいるのだから…。
いかんいかん、どうもこの間のパーティー以来卑屈になっている。このままじゃ鬱病になりかねない。今更病院通いも遠慮したい。あんなものは一度きりで充分だ。
「気持ちいねー、雲ひとつ無いよ。よかったねーまーちゃん」
何が良かったのかまったくわからないが、凛がはしゃいでいる。まあ幸せならそれでいいんじゃないかな。少なくともほっておけばいいのだから。
「まだむくれてるの? 意外にしつこいんだね、まーちゃんも」
俺が返事しなかったため、すねていると思ったらしい。まさか、俺ほど心の広い人間が、こんな些細なことでいつまですねてるものか。大体この程度ですねていたら身がもたない。凛の我がままなど今に始まったことではない。ここ数年で一般人の10倍は人生経験させられているからな。その突拍子も無さにもいい加減慣れた。
「すねてはいないさ。ただ少し飽きてきただけさ」
「そうだねーさすがに12時間以上、見えるものは空と海だけじゃ飽きちゃうか」
当たり前だろう、突然出かけると言われてからほぼ2日、何かしらの交通機関を用いて移動のみなんだぞ。どこの世界に飽きない人間がいる。
今思い出しても尻が痛くなる。自宅からハイヤーで拉致(?)され、そこから自家用飛行機で14時間、そこからまた自家用船で現在12時間強。あと5時間はかかるという話だ。俺でなくとも飽きが来るだろうよ。無駄に自家用飛行機やら船をもっているわりには、それらに一切の娯楽機能は付いてないときてる。一体何をしてろというんだよ。そりゃあなたはどこにいようが暇つぶしに事欠かないですけど、こちとら一般人は無理な話なんですよ。
「まあたまにはいいじゃない。どうせいつも家でごろごろしてるだけなんだから」
「お前に言われたくない、万年引きこもり女が。お前こそ何日ぶりに外に出たんだよ?」
「この間のパーティーを除けば、2ヵ月半ぶりかな」
爽やかな笑顔で答えてくるが立派な引きこもりだ。よく干からびないもんだ。まあ普通じゃないからな、凛は。
「何じろじろ見てるの?私の体に欲情しちゃった」
そう言うとどことなく悩ましい顔をしながら俺に身を寄せてくる。
「誰がだ、寝言は寝てから言え」
「あー失礼なんだから。これでもよくアイドルになりませんかってスカウトされるんだよ」
そりゃ初耳である。まあ確かに顔は多少幼いがそこらのアイドルよりも可愛いのは間違いない。小悪魔のような笑顔やられたストーカーさんも大量にいるそうだからな。彼らが今どこにいるかは誰も知らないが。御愁傷様です。
しかも質の悪いことにスタイルもいいときてる。詳しくサイズまでは知らないが、女性なら誰でも羨むスタイルである。出るとこは出て、引っ込むとこは引っ込んでいる。まったくあんな生活しててよく維持が出来るもんだ。天は二物も三物も与えすぎだ。そのうえ…な訳だからな。
「そりゃ良かったな。だが俺にとってはただの餓鬼だよ」
「ひどーい、もう16だってのに」
そう16歳なのである。俺はちなみに21である。誕生日は早い方なんだが、世間一般では俺ら二人を見たら犯罪と思うのだろうか。決してやましいことは一切ないんだが。これも俺の悩みのタネの一つである。
「まあその気になったらいつでもいいよ。私はまーちゃんのモノだからね」
全てを包み込むような笑顔を向けてくる。そりゃ皆騙されるよな。こんな顔でこんなこと言われりゃ誰だって落ちちまう。
俺はその笑顔を振り払うように軽く首を振る。そして落ち着くために煙草を取り出した。
「あーいいなー私にも頂戴」
「未成年は駄目だ」
「何よ、まーちゃんのけち!」
そういうと凛は船室の方に向かって走っていった。まったくなんで煙草なんか吸いたがるんだ。って俺が言えた義理ではないか。
そういえばパーティーの時は一度も言わなかったな。さすがにあいつでも世間体を気にするわけか。少し意外である。
俺は空に向かって煙を吐き出すと、4日前を思い出していた。あのパーティーがきっかけで今ここにいるわけだ。俺は少し目を細めると、眠りに落ちるようにあの日のこと思い出し始めた。
2
目を開けると朝日が目を焼き付けてきた。鳥のさえずりが聞こえる。寝ぼけ眼で枕元から煙草を取った。煙草を吸いながら、まだ覚醒していない頭で考える。こんな気持ちよく朝を目覚めたのは何年振りだろうか。
時計に目をやると8時をを少し過ぎたところである。今日は大学は2時限からなので、あと2時間程ある。なにせ徒歩10分で付くからな。あぁ素晴らしい朝だな、こんな日はきっと…
「嫌なことが起きるに違いない」
口に出して言うと俺は煙草を思いっきり吐き出した。ため息の代わりだ。もう手放しで夢を信じられるほど若くはない。それなりに人生経験を積み重ねてきたため、こんな日には必ず悪いことが起きることを知っているのだ。
ひねくれもの?。違う、常に精神の安寧を第一に考えているだけである。出なくてはこんな生活やっていけない。こういうときは現実逃避をするに限る。そう思い俺は再び布団を被ろうとした時である。
ピンポーン!
俺の安らかな眠りを妨害する音がなった。ほらな、やっぱり来たよ。
「まーちゃーん、入るよー」
そういいながらすでに声の主は靴を脱いでいる。そういう台詞は入ってくる前に言え。大体いつ鍵開けたんだ?間違いなく俺は昨日閉めたぞ。確かに合鍵は渡してあるが。
「あれー珍しく起きてるね。うんうん、早起きは良い事だよ」
黙らっしゃい、あんたは昼夜逆転してるだろうが普段。
「お前こそよくこんな朝っぱらに活動してるな…」
「うんだって今日はちょっと大事な用事があるから」
背中に悪寒が走ってくる。あぁ今日は1日終わったな。さようなら僕の爽やかな朝。
「で、どんな用事なんだ」
「あのね、今日パーティーがあるんだけど、まーちゃんにもでて欲しいいんだ」
珍しい。例え用があっても決して家を出ないこいつがわざわざパーティーなんてもんに出るなんて。普段何かあったらすべて使用人に任しているくせに。待てよ、ということは。
「もしかしてそのパーティーの主催者って、現神(あらがみ)なのか?」
「うん、そう」
凛はにこりともせずにうなずく。やはりそうか、それなら凛の行動にも納得いく。そして俺まで出張らなきゃいけないわけだ。
「さすがにあそこには私も逆らえないからね」
「そういうことならしかたないさ」
俺は笑顔を向けてやる。やれやれよりによって現神絡みかい。
「現神」とは、人類が文明を築いた時点から存在しているという一団である。それが嘘か本当はさだかでないが、そう思わせるだけの、権力と財力を持っているのは間違いない。
現在、世界で一番頂点に立っている存在である。だが実際のところ、「現神」の存在を知っている人間はこの世にほとんどいない。あまりにもでか過ぎて、だれも理解し得ない状態なのである。間違いなく誰か仕切っている人間が存在するはずなのだが、それが誰で、また何人なのかも定かではない。わかっていることは、この世の政治、経済、文化、ありとあらゆるものに関わりがあるというこだけである。と言うよりは手のひらの上にあると言った方が正解に近い。
そのため、何かをしているというわけではない。もちろん、何もしていないわけではないのだろうが、少なくとも俺にはまったくわからない。わかるとしたら、各国のトップだけであろう。
では何故そんなお偉いさんが開くパーティーに俺が参加しなけらばならないのか。
それは俺が凛のパートナーであるため。
そして凛が「現神」の所有物であるためである。
だからこの万年引きこもりが、こんな朝早くから出かけるわけだ。
ん?いやまてよ。何かおかしくないか。
「なあ、そのパーティーってのは何時からなんだ?」
「午後6時、つまり18時開始だね」
現在午前8時13分です。さてここで問題です。午後六時まで、あと何時間何分あるでしょうか。
正解は9時間47分です。
「…じゃあなんでこんな朝早くから来るんだよ」
「だってまーちゃんが学校行っちゃったら、捕まえるの一苦労だし。それに女性は準備に時間掛かるんだよ」
「俺は男だ」
「私は女」
………。
「それに久しぶりにまーちゃんと一緒にいたいなーっていう、女心だよ。よっ、もてもて!」
嘘をつけ嘘を。間違いなくただの嫌がらせだろうが。俺は今日何度目かのため息をついた。起きてからまだ3分足らずでこの回数か。自己最高記録だな。
しかたない、お付き合いしますか。これも運命だ。俺があの日選んだ。
「それで、どうしたらいいんだい俺は、お姫様」
「とりあえず、私の準備があるから一回私の家に行くよ。10分後に出るから、支度して」
そういうと鼻歌を歌いながらうちの冷蔵庫からお茶をだして飲み始めやがった。時間ない上に、勝手に人んちのもんあさるな!
朝から疲れた。とりあえず残り時間9分。急いで支度をしよう。
…これって尻にひかれてるっていうのかな?
時間がない上に、間違いなく凛の家にあるものの方が質がよいので、一張羅のスーツだけを持ってきた。あとの細々したものはあいつに借りよう。
大学入学と同時に買ったスーツである。入学式にも着なかったというのにまさか着る機会があるとは。
身だしなみも凛の家でやればいいので、スーツを適当に着た後財布と煙草を持ち、俺の支度は終了した。所要時間5分の早業である。
早いからと言って何か得があるわけではないのだが。
「支度できたぞ」
「あり、早いね」
そういう凛の口元にはヨーグルトの食べかすが付いている。こいつお茶だけじゃ飽き足らず、ヨーグルトまで食いやがったか。俺の朝飯を返せ。
金持ちのくせに以外にせこいやつだ。
「それじゃ行きますか。車は表に止めてあるから」
「ああ」
俺はけだるげに答えると改めて凛の格好を見直してみた。
艶やかな黒髪を今日はめずらしく下ろしている。その髪は腰にまで届いている。改めて思うがこんなに長かったんだな。そして線は細いくせに、無駄にスタイルの良い体を白いワンピースで包んでいる。こいつが着ていると一着のドレスに見えるから不思議だ。まあ実際かなり良い仕立てではあるのだろう。到底俺何かじゃ買えないぐらいの。
アイドル並みのルックスにこの格好だ、知らない人間が見たら間違いなく清楚なお嬢様以外の何者にも見えないだろう。もっともそれが持続するのは、会話を始めてたった5分足らずだろうが。
「…なあ、どこに支度の必要があるんだ?それで十分じゃないのか?」
俺は思わず疑問を口にする。
「もうわかってないなーまーちゃんは」
人差し指を立て、口の前で振る。また何か漫画でも読んで影響受けたな。全く様になっちゃいない。いい加減すぐ影響を受ける癖を治すことだな。
「こんな普段着で行ったら恥ずかしすぎるよ。それに化粧もしなくちゃいけないし」
これで普段着だというのだから呆れる他ない。間違いなくそのワンピース一着で0が五つは並ぶだろうが。大体お前滅多に化粧しないじゃないか。
というかしたことあったか…?
「というわけで、早速行くよ」
「はいはい、お姫様」
ため息をつきつつ俺たちは家を出る。鍵を閉めたか確認した後、エレベーターの前に向かう。着くとちょうど俺の住んでいる階に止まっていた。
以外についているなと考えそうになったが、考えたら凛が使ったんだから止まってるに決まってるよな。人生そんなもんである。
俺はボタンを押しドアを開けると、滑り込むように乗り込む。別にやましいことなど何もしていないんだが、癖みたいもんだ。
我が家は14階建てのマンションの10階にあるため、1階に着くまでに数分を要する。つまり密室の中に男女が数分間二人きりというわけだ。
こんな表現をするとどことなくいやらしい響きに聞こえるが、俺にはそんな感情はこれっぽちもわいてこない。ただめずらしく凛の体から香水の匂いがしたため驚いてしまった。珍しいことが今日は続くものである。
こいつが香水なんてな。少しは大人になったってことなのか。嬉しいような悲しいような。もっとも俺はこいつの親であるわけではないので、実際はどうでもいいのだが。
「珍しいな、お前が香水なんて」
「ああ、これ」
まるで悪戯が見つかった子供のように、舌を出して笑った。こんな表情を見るとまだまだお子様に見えるのだがな。何か心境の変化か。
「今日朝ちょっと慌てちゃって、つまづいた拍子に香水頭からかぶっちゃったんだよね」
所詮そんなものか。
こいつに変化なんてもんはやはり存在しないらしい。この俺のように。
しかし、つまづいて頭から香水かぶるなんて、まるで漫画じゃないか。ある意味器用な奴だ。
「そんなに匂う?大分落としたつもりなんだけど」
「いや、大して気にならないさ。丁度いいんじゃないか」
「うふふ、まーちゃんがそういうなら、よかった!」
無防備な笑顔を向けてくる。まったくよく笑うやつだ、まるでそれしか表情を知らないかのように。
くだらない会話をしているとエレベーターが1階に到着し、ドアが開いた。表に出ると、日差しがとてもまぶしい。いい天気だ。ただこれかのことを考えると、気分は非常に憂鬱ではあるが。とりあえずは久しぶりの気持ち良い朝を満喫するとしよう。
「それで車はどこに止めたんだ」
「この辺は駐禁だったから少し離れたとこに止めたよ。少し歩くけどいい?」
「ああ、別にかまわないさ」
折角の良い天気だ、散歩もたまには悪くない。
お互い何を話すわけではなく歩き出す。そういえばこいつがうちに車で来たのは久しぶりだな。というかいつもは俺がこいつの家に行っているんだった。たまにはいいもんだな。
マンションから5分ほど歩くと車が見えてきた。その間中凛は何が嬉しいのか、ずっとスキップをしていた。相変わらず何を考えているのか全くわからん。
そんなことを考えながら歩いていると、車がはっきり見えてきた。
………。
「到着〜♪ ? どうしたのまーちゃん?」
まさかこんなところで人生初体験ができるとは思わなかった。
目の前に止まっているのは、黒いボディで朝日を反射させているリムジンだった。光の加減のせいなのか、はたまた俺の意識の問題なのか普段テレビで見るものよりもより高級に見える。いや、間違いなく高級なのだろう。
「さあさあ、乗って!」
朝早いため、通りにはあまり人がいないのが救いだ。もし人が大勢いるようなところでこんな車に乗ったら、好奇の視線で悶絶していたところだろう。
俺が思わず一歩引くと、音もなくドアが開いた。タクシーじゃあるまいし。こういうときは運転手が開けるもんじゃないのか?相変わらず変なところでずれている。
「これに乗らなきゃだめか?」
「え〜何で?」
何でじゃない。こんな車に乗って落ち着けるわけないだろうが。
「たまには俺の車も悪くないんじゃないか? 俺が運転してやるよ」
「うーん、でもまーちゃんの車狭いなー。嫌いじゃないんだけどね、助手席に座るのも。何よりもまーちゃんのカッコいい運転姿見れて嬉しいんだけどね」
笑顔であっさりきついことを言う。これに比べりゃどんな車だって狭いに決まっている。どうせ狭くて古いさ。古いは言っていないか。あれでも以外に高かったんだぞ。
「というわけで、ほら早く!」
俺はしぶしぶリムジンに乗り込んだ。さすがに最高級車、座り心地は抜群だ。俺たちが座ると音もなくリムジンは発車した。
うーん、乗り心地も悪くない。ここは開き直ってこの状態を楽しむか。
あまりの心地よさに、俺は数分後には眠りの世界に入っていった。
「まーちゃん、着いたよー」
聞きなれた声に起こされると、目の前には別世界が広がっていた。相変わらず東京とは思えない場所である。時計に目をやると、家を出てから30分程である。平日の早朝で道が空いていたのだろう、早い到着だ。しかし俺のマンションは足立区にあるのだが、そこから30分でこれだ。ここは本当に東京なのか?。実は異世界とかいうオチはないのか?
「ほらーまーちゃ−ん、行くよー」
「…ああ」
俺は目をこすりながら車を降りる。まるでそうすれば真実の姿が見えるかのように。もちろん目の前の光景は何も変化はなかったが。
後ろを振り向くとリムジンが走り去っていった。結局運転手が見れなかったな。少し気になったんだが、まあいつか見れるだろう。
数十歩歩くと、巨大な扉が現れた。何度来てもでかい屋敷だ。一体何坪あるんだ? しかもこの辺の目に見える範囲の土地はほとんど凛の所有だってんだから驚くほかない。
「まーちゃん、いらっしゃい」
凛がそう言うと扉が開いた。俺の慎重の1,5倍はあろうかという扉だが、どうも自動ドアらしい。意味があるようなないような。
扉をくぐり屋敷の中に入ると、主人の帰りを待っていた使用人達が出迎えていた。何度見ても慣れない光景である。
「それじゃ私は支度してくるね」
「それはかまわないんだが、俺はどこにいればいいんだ?」
「そうだね、まーちゃんの支度終わったら居間にでもいて。なるべく早くいくから」
「わかった。あとおまえんちのもん借りるけどかまわないか?」
「もちろん! 好きに使っていいから」
そういうと凛は屋敷の奥に向かっていった。さてと、俺も支度しなくてはな。さすがに「現神」相手では気を抜けないからな。俺の生活費はあそこから出てるようなもんだからな。それを言ったら世界中の人間がそうか。
「では、こちらにどうぞ」
声のする方を向くと、いかにも執事ですといっや格好の初老の老人が立っていた。
「お手数お掛けします」
「なになに、凛様のためですので。それにあなた様はすでにこの屋敷の一員のようなものではないですか」
そういうと執事はにこやかに笑った。年を取ったものにしか出来ない、奥の深い笑顔だ。俺もいつかこんな顔を出来るようになりたいもんだ。
お互い目線で頷きあい、凛が向かった方向とは逆に進みだした。とっとと済ませて一眠りするかな。どうせ時間掛かるんだろうから。
ちなみにこの執事がセバスチャンと呼ばれていると知ったのはかなり最近の話である。本名か否かは定かではない。
俺の支度はものの30分程で終わった。後は凛を待つだけなのだが、いつまで待てばいいのやら。執事に居間に案内され(ちなみに何度もこの屋敷には来ているが、あまりの広さに未だに間取りを覚えていない)着いたはいいが、相変わらず広すぎて落ち着かない。まあどうせ寝てしまうのだから関係ないのだが。
「良質の紅茶葉が入ったのですが、お飲みになられますか?」
そういう執事の横にはすでに紅茶のセットが準備されていた。ここまで準備され断れるほど俺は傲慢ではない。どうせ時間はたっぷりあるのだから、一眠りはこの後でもいいか。
「ありがとうございます。ありがたく頂きます」
そういうと無駄な動作なく準備を始めた。慣れた手つきである。さすがプロだ。あっという間に部屋中に良い匂いがし始めた。
「お待たせしました、どうぞ」
目の前に琥珀色の液体が置かれた。あまりの美しさと香りに思わずため息がこぼれた。さすが高いだけはあるな、最近飲んだ紅茶なんか100均で買ったティーバックの紅茶だけである。折角だからたくさん飲んでおこう。しかし、すぐに金のことを考えるあたり、最近発想が貧しくなったのだろうか…。
「ではごゆっくりどうぞ。何か御用がありましたら、そちらの呼び鈴でお知らせください」
一礼をして執事は部屋を出て行った。うーん、最後まで完璧である。いつかはあんな執事を雇いたいもんだ。いつの日になるかは考えないでおこう。
俺は紅茶を一口飲むと、煙草をポケットから出した。灰皿を引き寄せると早速一服した。至福のひと時だ。朝起きたときはひどい一日だと思ったが、こんな思い出来るなら悪くはないな。
しばらく紅茶と煙草を楽しんだ後、ふと我に返ると今日はまだ飯を食べていないことに気づいた。時計を見ると10時である。朝飯にしては遅いが、そろそろ小腹が空いてきた。
「どうするかなー…」
呼び鈴を押すか迷っていると、ドアが開き執事が入ってきた。
「ご朝食がまだなそうなので、もしよろしければどうぞ。お口に合いますか」
完璧だ、完璧すぎる。まるで俺の心が読めるのではないのかと疑いたくなる。
「すいませんね、そこまで気を使っていただいて」
「凛様はまだまだかかりそうですのでね。せめてもの気持ちですよ」
そう言うと静かに俺の前に料理を並べ始めた。口に合うかなど謙遜していたが、少なくとも普段の俺の食事に比べれれば雲泥の差である。こんな食事は久しぶりだ。思わず腹が鳴ってしまった。
執事が苦笑したので、思わず顔を背けてしまった。おそらく今の俺は耳まで真っ赤だろう。
「では失礼します」
俺については何も触れず、何事もなかったかのように部屋を出て行った。ここまでくると完璧すぎてとても同じ人間とは思えない。あの人の100分の1でいいから、あの丁寧さを凛に見習ってほしいものだ。
折角の食事が冷めてはもったいないので、俺は早速食べ始めた。腹が空いていたのと、あまりの美味さにあっという間に平らげてしまった。食後の一服をしていると、空腹が満たされたために眠気が襲ってきた。当初の予定では寝るつもりだったので丁度いい。
俺は煙草をもみ消すと、睡魔に身を任せ眠りに落ちていった。
起きたころにはあいつの準備が終わっているといいのだが。
「よく眠れるねー、まーちゃんたら」
再び聞き慣れた声に起こされた。俺は体をテーブルから起こす。どうも突っ伏して寝ていたらしい。体の節々がきしんでいる。どうせならソファーか何かに寝ればよかった。
「もう、折角お洒落したのにしわになってるよ」
凛のお小言は聞き流し、俺は腕時計に目をやった。時刻はちょうど2時を回った頃である。4時間近く寝ていたようだ。まあこれでしばらくは寝なくて済むだろう。どうせ今日は何時に帰れるかわかったもんじゃないからな。今のうちに寝だめだ。
「やっと終わったのか。支度するだけによくこんな時間かけられるよな。大して変わったようには見えないんだが」
確かに朝の服装とは違っていたが、そこまで手間のかかる格好には見えなかった。淡いピンク色したノースリーブのドレスに、シルクの薄いカーディガンを羽織っている。髪も櫛を通しなおしたのであろう、朝よりもさらさらになっている。しかし髪型に凝っているわけでもなかった。一房だけ後ろにまとめ、それを真っ赤なリボンで結んでいる。童顔と大きな赤いリボンのせいで、普段の3割り増し幼く見える。こりゃ妹属性の方々にはたまらないものがあるんじゃないか?
「そんなことないよー見てよ、ちゃんと化粧もしてるでしょ」
そういう凛の顔をよく観察してみると、確かに薄っすらと化粧を施している。使用人にメイクのスペシャリストでもいるのだろうか、非常にナチュラルで、余程しっかりと見なくてはわからないレベルである。ただ口紅だけが浮いているかのように濃い赤である。そのおかげで、妙にに艶めかしく見える。
「こういう自然なメイクには時間が掛かるの!」
別にお前がやったわけじゃないだろうと突っ込みたかったが、大人は子供相手にむきになるものでもないので、ここは引いておいた。
「そうなのか、無知ですまないね」
「ううん、わかってくれればいいの」
化粧のせいなのだろうか、いつものあどけない笑顔ではなく大人びた笑顔に見えた。うーん、こう見ると改めた思うが、女は化粧でばけるってのは本当だな。
「それじゃ行こうか、まーちゃん」
「ああ、かまわないさ」
やれやれやっと会場に向かうのか。何か今日は長い一日だ。もっともまだ半分も終わっていないんだがな。この先のことを考えると、どうにも憂鬱になる。
凛に連れ立って玄関まで向かうと、先ほどの執事が待っていた。
「いってらっしゃいませ、凛様」
「うん、行って来るよー。少し遅くなるけど、まーちゃんがいるから大丈夫!」
「そうでございますね」
執事は笑顔で何度もうなずく。何で俺はこんなに信頼されているんだ? 確かに凛との付き合いは長いが、執事とは数回しか会ったことがないというのに。
「それではくれぐれもお願いいたします」
そう言うと執事は俺に頭を下げてきた。理由はわからないにしろ、こんな良い人が俺なんかに頭を下げるのだ、ここは一つ気合を入れなくては。ここで知らん振り出来るほど俺は駄目な男ではないと自負しているからな。
「はい、お任せください」
俺も頭を下げる。顔を上げると執事と目が合った。そこには言葉を必要としない、男同士の会話が存在した。と、思いたい。
「すっかり二人とも仲良しだねー」
対照的にはしゃぐ凛。お前には悩みがないのか?
凛は黒い革靴を履くと先に屋敷を出た。ちょっと待て、俺は来るときスニーカーを履いて来たが、さすがにこの靴じゃ行けないよな。
どうしようか悩んでいる俺の目に、俺のスニーカーと並んだ、いかにも高級そうな靴が飛び込んできた。
「よろしければどうぞこちらの靴をお履きください。あなた様のお靴の方は、こちらでご自宅の方まで届けさせますので」
本日何度目の感嘆だろうか。執事さん、パーフェクト!
「ありがとうございます、遠慮なく履かして頂きます」
感謝しながら俺は急いで靴を履き、凛の後を追った。前を見ると、退屈そうに立っている凛が見えた。はいはい、今から行くから少しは待ちなさい。
俺はもう一度執事にお辞儀をすると、小走りで凛の元へ向かった。
「遅ーい」
「悪いな、少し手間取ってな」
凛が俺を待たせた時間に比べれれば、大した時間ではないのだがつい謝る。どうも最近すぐに謝る癖がついたらしい。悪癖だ。
凛の肩越しに正面を見るとリムジンが止まっていた。またこいつで行くのか。俺と凛が乗り込むと当然のように音もなく発車した。
「なあ、会場までどのくらいかかるんだ?」
「そうだね、ここから2時間半ってとこかな。どうせだから、少し早めに着いてお茶でもしてようよ」
「うん、わかった」
2時間半か、少し長いがもう眠れないしな。まあ退屈というのも嫌いではない。どうせこの後目の回るような忙しさなんだろう、ここらでのんびりしておくのも悪くない。
そう思い俺は座席に深く座りなおした。そうだ、どうせ暇なのだから、今のうちに聞きたいことを聞いておこう。
「なあ、今日のパーティーは一体何の集まりなんだ?」
「うん? 一応名目上はお偉いさん方の懇談会になってるんだけど、実際は定例報告会かな」
「定例報告会?」
「そう、正式名称じゃないんだけどね」
聞きなれない単語である。俺は首をかしげ、何のだ、と聞き返す。
「「現神」が関わっている―と言っても、現神が関わっていないことなんかほとんどないんだけどね―研究の成果を報告しあうの」
「へー、確かにあそこは色々やっているからな」
公に出来ることから出来ないことまで、ありとあらゆる研究をしているという話を聞いたことがあった。そしてもちろん、大きな成果を挙げているとも。だからこそ、「現神」が世界の頂点に立っていられるのだろう。
そしてわざわざ凛を呼ぶと言うことは。
「今回はどうも私絡みみたいなんだ、これが」
やはり。
「じゃ本当はあんまり行きたくないんじゃないのか?」
凛は「現神」には逆らえないといっても、絶対ではない。必要最低限以外は断る権利を持っている。本当はあまり関わりたくないらしい。そのためただでさえ嫌なのに、それが自分絡みとなれば、凛の心中は穏やかではないだろう。
「まあね、でも今日は人と会う約束があるからそんなでもないよ」
微笑む凛を見て少し安心した。何か目的があるなら良かった。
別に凛絡みの報告会といっても、凛が何かするわけではないだろう。そんな話は一度も聞いたことがない。だが周りの好奇の視線を浴びることは想像するに易しい。凛は関係者からしたら珍獣とそう大差ないイメージを持たれている。それは俺にも言えることなのだが。
そのため、凛はあまり大きな催しに出ることを嫌うのである。いくら普段は能天気な娘だといっても他人からの蔑んだ目を浴び続けることは、苦痛以外の何物でもない。だから、少しでも前向きであるのならば、安心して向かえるというものだ。俺はいくらでも蔑まれてかまわない。そんなものは慣れっこだからな。ただ、凛のそんな姿を見るのはあまりにも忍びない。こいつは俺みたいに欠陥品ではないからな。
「その約束の相手ってのは、どんな奴なんだ?」
「私の昔からの知り合いだよ。とってもいい人なの」
「どんな風に?」
「私と対等に付き合ってくれるから」
それは最高の知り合いだ。
「久しぶりに会うから、すっごく楽しみなんだ♪」
「そりゃ、よかったな」
凛がこんなに嬉しそうならば、何も心配はいらないだろう。後は俺が退屈な時間を過ごせばよいだけだから。
「名前はなんていうんだ?」
「詳しい紹介は、会ってからしてあげる。でもとっても可愛い人だから。惹かれちゃ駄目だよまーちゃん」
ということは女性なのか。俺にも少し楽しみが出来た。
「だから駄目だってば、まーちゃんは私のものでしょ!」
「はいはい」
「もうー本気で怒るよ!」
「悪かった悪かった」
「反省してるの?」
「してますよ、お姫様」
「嘘くさい」
そんなくだらないやり取りをしてるうちに、時間はあっという間に過ぎた。気づけば目的地に到着していた。2時間あまり、凛のご機嫌取りに終わったってことか。まあいい暇つぶしだ。
パーティーにはまだ1時間以上あるので、俺たちは近くの喫茶店でお茶をした。それなりによさげな店に入ってみた。二人とも紅茶を頼んだが、凛の屋敷で飲んだものに比べれば雲泥の差だ。あんまりこいつの屋敷に通ってると、普通の生活出来なくなるぞ。少し控えよう。
「そろそろ時間だね」
「ああ、いくか」
無駄話をしているうちに時間になっていた。俺たちは会場に向かって歩き出した。受付では驚いたことに顔パスだった。それなりに顔をが通るとは思っていたがここまでとは思っていなかった。実はものすごいやつなのかな、凛は。
案内された部屋に着くとすでに人でいっぱいだった。一体何人の人間がいるんだ。この中から目的の人物を探すなんて、砂漠で真珠を見つけるようなもんだぞ。
「大丈夫、私に見つからないものなんかないよ」
俺の内心を読んだのだろう、声をかけてくる。それもそうだ、全世界においてこいつに探せないものはないんだった。
「というわけで、私はちゃっちゃっと見つけてくるから。まーちゃんはそこら辺で待ってて」
「わかった。お言葉に甘えさせてもらうよ」
一つうなずくと凛は人ごみの中に向かって歩き出した。そして俺は近くの椅子に座ると、やがて来るだろう二人を待ち始めた…。
3
俺の意識が過去から現在に帰ってきた。そうだった、そこで彼女に会い、今ここに連れて来られたのだった。しかしあの日の朝の嫌な予感は実現したな。それも最悪の形で。これから行く島のことを考えると逃げたくなる。
俺って何なのかなー、ここまでついてないなんて何か憑いてるんじゃないのか?
「すっかりまいっているみたいですね」
くだらない駄洒落を思いつきへこんでいる俺に、誰かが声を掛けてきた。俺が後ろを振り向くとそこには問題の女、美弥之裡茉莉華が立っていた。
「ええ…さすがに」
「すいませんね、無理を言って」
「いえいえ、あいつの我がままにはすっかり慣れましたよ」
俺の言葉に茉莉華さんは微笑んだ。
「仲がよろしいんですね」
…どこをどう聞けばそう捉えられるのだろうか。この人も少し普通の人とはずれているらしい。見た目はとても愛らしい人なのに。
「風が強いですね」
「そりゃ海の上ですからね。何でしたら中に入りますか?。ここで立ち話もなんですから。俺に話があったんでしょう」
「ええ、でも少し外の空気が吸いたかったのでかまいませんよ」
凛ほどには長くはないが、それでも髪が肩を超えている。さすがにうざったそうだ。初めて会った日は黒いフォーマルなドレスを着ていたために、嫌みな女などと失礼なことを思ったが、ちゃんと話をしてみればとても知的で良い人であった。
今日は普段着なのだろう、白いシャツに紺色のスカートを穿いている。スカート丈も膝下でまさに見本となるべき女子高生、といった感じである。しかし年のほうはもう20代後半(詳しくは教えてもらえなかった)とのこと。綺麗なお姉さんといったところか。
「あれ、今日は眼鏡なんですね」
「ええ、あの日はコンタクトでしたがね。普段はすぐ目が疲れるので眼鏡なんですよ」
眼鏡も悪くないなと不謹慎なことを考える。知的な女教師か、心躍る設定である。ちなみに俺に変な趣味はないから、あしからず。
「ところで…」
俺はおもむろに話を切り出す。島に着く前にどうしても一つ聞いておきたことがあったのだ。
「はい? 何ですか」
「今回のこの旅行、いえ所詮表向きなんでしょうけれども、一体何をしに島にいくんですか?」
「仰るとおりです。この旅行はただの観光というわけではありません」
思っていた通りだ。凛に普通に旅行をするという感覚はない。基本的に家を出たがらないし、出る必要がないからだ。ただ、久しぶりの友人との邂逅、思い出を楽しむために旅行に行く、ならば決してありえない話ではないが、これまたその友人の肩書きが…ときてる。これがただの観光目的の旅行であるはずがないのだ。
つまり俺がいい迷惑を被るという話でもあるんだが…。
「さすがに気づきますよね」
「それはさすがに。ただの観光で行く場所ではないですからね」
「なにせあの、暁の眠らぬ島ですからね」
そう、場所にも問題があるのだ。今から向かう場所はいわくつきもいいところである。
「それで、本当の目的は何なんですか?」
「一種の実験ですね」
「実験?」
「ええ、本当は私もあまり参加したくはなかったのですが」
「HOCSですか」
「その通りです」
それしかありえないだろう、あの凛が参加している以上。
通称、HOCS(ホックス)。正式名称、Hummanize Of a Computer Scheme。
日本語に無理やり訳すのならば、コンピュータ人間化計画とでも言うのだろうか。
現在「現神」が最も力を入れている研究の一つである。読んで字の如く、コンピュータを人間と同等にまで進化させようという計画である。もちろん、コンピュータの方が人間よりも演算能力が高いのは事実である。では、人間がコンピュータに勝っている点は一体何であろう。
それは勘である。
コンピュータは高度な演算能力を用い、計算、予想はお手の物であるが、プログラムされていない突発的な出来事には弱い。そこで人間特有の、感情や勘といったものを与えることにより、とっさの判断能力も持たせようという計画である。
それにより情報収集においても、表面上だけの情報を無駄に集めるだけでなく、集める時点でコンピュータ独自の判断と感性で情報を取捨選択させられれば、大量の時間削減に繋がると考えたのだ。
言ってみれば人工知能を造ることにイメージは近い。ただ、昔ながらのSF小説なのでお馴染みだが、人工知能の危険性も当然考えられた。機械でありながら人間の心を持っているがゆえのジレンマ。それによる暴走。造る前から何を考えているんだかと思うが、何事もまずは危険性を取り除くのが「現神」のスタンスらしい。そこで一つの解決案を思いついた。
機械であるから危険なのなら、初めから人間であれば問題ないではないか。
逆説的真理である。つまり、コンピュータに人間のような感情を持たせるのではなく、人間にコンピュータ並みの演算能力を持たせてしまえばいいのだと。人間性や人格問題を考えたら批判の嵐であろう。ただそれをねじ伏せる、ばれる前に完全に隠蔽するなど「現神」にとったは朝飯前である。
実験は順調に進んだわけではない。人間の演算能力を上げるにはどうすればよいのだろうか。それを見つけるだけでも50年は掛かったと言う。気の遠くなる話だ。時間をかけた成果か、一つの方法が見つかった。
人類の肉体と同化できる、言うなれば生態CPUなるものが開発されたのだ。これを人間の脳と同化させることにより、人間の演算能力を飛躍的に発展させることが可能となる、はずだった。
ようは人間にコンピュータを埋め込んで、それを自由に扱えるようにしたのだが、何故か上手くいかなかった。CPUは確実に同化し、人体になんら悪影響を与えないのだが、CPUだけが活動しないのである。CPUを埋め込まれた人間は、何の変化もなく今までの人生を送れたのがせめてもの救いだろう。それでもあきらめず続けた結果、ある種のの人間には反応することがわかったのだ。
それは生後まもない乳児、しかも女に限っては何故かCPUは反応するのである。
何故女の乳児だけのかは未だに解明されていないが、問題なく活動をし全く副作用を起こさないのである。そしてまだ実験続行中ではあるが、成長しても何も問題は起きないそうだ。
このCPUを埋め込まれ、問題なく活動している人間は演算能力の向上だけでなく、何の機械も用いずネットワークの世界に入り込める力も手に入れた。
人間は脳から発せられる電気信号により活動している。実験の副産物ではあるのだが、脳から出る電気信号を変化させ繋げることが可能になった。つまり、我々がインターネットをするためには、パソコンを用意し、回線を繋ぎ、特定のプロバイダと契約、それでようやくウェブ上の情報を得ることが出来るのだが、彼女らは思うだけで情報を得られるのである。いわば歩くネットワークと言ったところか。
しかしこれにより一つの問題が生じた。彼女達は思うだけでネットの世界に入ることが出来る。そのためあらゆるデータベースに進入することが出来、ハッキングからクラッキングまで何でもし放題なのだ。つまり彼女達がその気になれば、アメリカの国防省に侵入、コンピュータのコントロール能力を奪い、核ミサイルを全世界に向けて発射。冗談ではなく、彼女達は世界の命運を握ってしまったのだ。
もちろんプロテクトを強化することにより、進入を阻むことも可能なのだが、所詮一般人には無理な話であった。例えどんな天才がプロテクトしようとも、コンピュータの演算能力が高いが、扱う人間の演算能力は人並み、あっても数倍である。ところが彼女達は、基本の演算能力が一般人の数百倍、さらに一般人がキーボードで打ち込まなくてはならないところを、考えるだけで可能なのだ。どう足掻いても勝ち目がない。
このままほうっておいていい問題ではないため、少々物騒だが彼女達にの体に爆弾を埋め込むことにより、一種の膠着状態を作り出した。彼女達が世界に危機を与えかねない行動をした場合、すぐさま爆弾が爆発、世界を救うというわけである。
これほど危険な存在であるため、世間にはまだ発表されておらず、知っているのは一部の人間だけである。これでは意味がないので、現在「現神」はあらゆる人間に対応できるCPUを製作中である。遠い将来、全人類が機械の力により進化する日が来るのかもしれない。
長くなったがもうお気づきだろう、凛はそのHOCSの実験体である。
さすがにわが子を実験台にする親はいないため、親がいない子供を秘密裏に調達しCPUを埋め込んでいる。そのため凛には親がいない。生活は全て「現神」が保障している。だが普通の子供同様に学校にいったわけではない。世間に凛の存在を知られるわけにはいかないからである。そのため凛は「現神」に逆らえない上に、知り合いも少ない。俺が始めてあった頃は孤独で壊れそうな脆い少女だった。実際壊れていたのだが。
あれだけでかい屋敷に住み、贅沢な生活をしているが、誰よりもつらい思いをしているのだ。そんな凛であるため、この間のパーティーであっさりと茉莉華さんを発見出来たのである。
俺は思考を切り替えて、再び茉莉華さんに質問を続ける。
「それで、どんな実験なんですか?」
俺は久しぶりに口を開いた気がする。実際は大した時間ではないのだが、俺の頭の中では色々な思いが交錯していた。
「私も詳しくは知らないのですが、数名のHOCSによる実験らしいです」
なんてことだ、ただでさえ数が少ない彼女達が小さな島に何人も集まると言うのか。これで何も起きないはずがないではないか。
今から不安で胃が痛くなりそうだ。実は凛以外のHOCSに俺は会ったことがない。ゆえにどんな人間なのか不安だ。以外に普通なのだろうか、それともエキセントリックなのか、やはり壊れているのか。
「ただそこまで大げさなものではないみたいですけどね。密閉空間における、HOCS同士の心理状態の観察、だとかいう話ですけどね」
茉莉華さんも大変だ。そんな何が起こるかわからない島に、いくら仕事とはいえいかなくてはならないのだから。俺は茉莉華さんに同情した。
「大変ですよね」
「まあ、苦労はいっぱいありますけど、好きなことですからね。それにおかげで凛さんに出会えましたし」
屈託なく茉莉華さんは笑った。そして俺は心底安心した。こんな人が凛と知り合いになってくれたことに感謝した。
「でもいざとなった時凛さんを守れるのはあなただけなんですからね」
「わかっていますよ」
俺はいつになく真剣な顔で頷いた。
「でもこの2日間一緒に行動しましたが、あなたは信頼に足る人物のようなんで、安心しました」
「そうですか、皆買い被りすぎなんですよ」
「たとえ買い被りでもあなたしかいないのですから」
いつになく茉莉華さんも真剣な顔を向けてくる。茉莉華さんにとって凛は娘みたいなものだからな仕方ないだろう。話を聞いたが、凛の成長過程を見たのはこの茉莉華さんなのだいう。それも5歳から12歳という時期なのだからなおさらだ。
「まあ、お互いがんばるということで」
「そうですね、先は長いんです、気を張りすぎても仕方ありませんよ」
俺の言葉でお互い軽く息を吐く。茉莉華さんの言うとおりだ、1週間も滞在するのだ、程よくリラックスしていなくては身が持たない。
「そうだ、私も一つ質問があるんですけど」
「なんでしょう、答えられる範囲ならお答えしますが」
「これから長い付き合いになりますが、あなたのことをなんと呼べばいいんでしょうか。凛さんはまーちゃんしか言いませんし、何よりもあなたから名前を聞いた覚えがないんですが」
あら、そうだったかな? あまり自分の名前に愛着がないためうっかり忘れていたらしい。
「そうでしたっけ? まあ何と呼ばれてもかまわないんですけどね」
「さすがに困りますよ、そんなこというならミケとか呼びますよ」
さすがにミケは嫌だな…。
「えー、基本的に俺は人に本名を教えないんですよ。あだ名の方が覚えやすいんで。だから茉莉華さんもそれでかまいませんよ」
「あなたがそういうのなら…それで、そのあだ名は?」
本名よりも慣れ親しんだ名前。何よりも俺を表すのにふさわしい名前。
「まだら、と呼んでください」
「まだら、ですか?」
「ええ、名作斑の紐の斑です。言いにくかったら「ま」が入ってればなんでもいいですよ。こっちは反応できますから」
さすがに驚いたのだろう、はーというだけで返答に困っている。
「ではおいおい考えておきます。でも何でそんなあだ名なんですか?」
何故かって?それはそのままだからですよ。俺は「斑」な人間なんです。
「まあ、時間がありましたらおいおい説明しますよ」
無透明な顔をで質問に答える。それを聞くには覚悟がいりますよ。俺はまだあなたを壊したくない。
「ほら、見えてきましたよ。あれでしょ」
二人の前方に小さく島が見えてきた。茉莉華さんはいぶかしげな顔をしていたが、島を見たとたん明るい顔をした。さすがに長旅に疲れていたのだろう。まったく同感だ。
「ようやく着きましたね」
「ええ。でもこれからが本番ですよ、茉莉華さん」
何が起こるかわからない島。鬼がでるか蛇がでるか。どちらも御免被りたいところだが。なにせいわくつきの島である。茉莉華さんが振り向きこちらを見る。そして口を開いた。
誰も知らない島、誰も住めない島、誰も帰れない島、その名も…。
「暁の眠らぬ島へようこそ」