静寂、ありし平穏、儚い刹那


 乾燥した大地に、左足を下ろした。左足であることには大した意味があるわけではない。かの有名なアームストロング船長が、初めて月面に降り立った足が左じゃなかったか。違ったかな? 別にどっちでもいいんだけどね。
 長い船旅を終えてようやくたどり着いた。あまり着きたくはなかったが。何度船上で、トラブルが起こって本土に引き返す、なんてハプニングが起こらないかと祈ったことか。ちなみに原因を34通り程考えてしまった。それだけ暇だったという意味でもある。
「やっと着いたねー。さすがにお尻が痛いよ」
「お前ほとんど座ってなかっただろうが。暇さえありゃ走り回ってたくせに、よく言うよ」
「あれ、そうだっけ?細かいこと気にすると髪の毛とさよならしちゃうよ」
 余計なお世話だ。俺の家計は代々禿げはいないんだよ。それこそ関係ないか。
 俺は改めて周りを見渡す。思っていたよりも普通の島である。広く綺麗な浜辺、心を癒してくれるかのような、程よい森林。その手前にある、馬鹿でかい屋敷だけが、この島の調和を壊しているかのように見える。だが、間違いなく美しい島である。バカンスにはもってこいだな。
 もっともここはそんなに可愛い島ではないが。
「立ち話もなんですから、お屋敷に向かいませんか?」
「ああ、そうですね。でも茉莉華さん、迎えの一人もこないんですか?」
 俺みたいなぺーぺーだけならともかく、生きた世界最高機密の凛がいるというのに、誰も迎えが来ないなんておかしな話だ。普段なら嫌という程現れてはわめきちらすというのに。
「基本的にこの島を使える人達は、皆さん凛さんのような方々ばかりですから。確かに使用人はいますが、スタンスとしては自分のことは自分でするというのが、この島の暗黙の了解なんですよ」
 納得である。使用人を除けば、ここに滞在する人間はみな、何かしらの最高機密さん達なわけだ。皆が仲良く平等に横一列なわけね。そう考えると、下手な気苦労がなくて楽かな。しかしそれぐらいじゃ、この島のデメリットには到底太刀打ち出来ないな。
「早く行こうーよー、私はとにかく座りたいよ、まーちゃん」
「はいはい、わかりました」
 それを合図に俺達は屋敷に向かいだした。近くに見えるが、思ったより遠い。とにかくでかいために、近く感じたのか。遠近法なんか完全無視かい。
 10分程歩くとようやく入り口までたどり着いた。そばまで来て見ると、この屋敷のでたらめさがはっきり理解できた。なんでてっぺんが見えないんだよ! いくら首をほぼ90度に見上げているとはいえ、屋根が見えないなんてどんな高さなんだ?というか何階建て? 誰が使ってるの?
「ふー疲れたー。もう荷物が重いよ」
 黙らっしゃい、この天然虚弱児女が。お前の荷物の9割りは俺が持ってやたんだろうが。だいたいなんでバッグが5つもあるんだよ。一体何が入ってるんだこん中には? 後でこっそりみてやろうか。…ってそれじゃただの変態痴漢野郎じゃねーか。
「まあまあ、もうすぐ休めますから。今開けてもらいますから」
 こんなに荷物を持っていれば、当然ドアは開けられないわけだが、仮に何も持っていなかったとしても、このドアを開けられたことだろうか? 自分の身長の3倍はあろうかというドアを開けられるほど、俺はマッチョではない。
「すいませんが、そこの呼び鈴を押してもらえませんか?」
「ええと。ああ、これですね」
 俺の目の前に小さな呼び鈴があった。屋敷の大きさから比べると、なんとも可愛らしいサイズである。呼び鈴まで無駄にでかくても嫌だが。
 俺がそのボタンを押そうとした瞬間、きしむような音を立てながらドアが開き始めた。
 あれ? 俺はまだ何にもしてないぞ。もしかして、俺には超能力があったのか。そうだったのか、今まで気づかなかった。こんな力があるならこれからの人生成功間違いなしだ!…なんて現実逃避はやめよう。中の人が開けてくれたに決まってる。ちなみにここまでに要した思考時間は1秒ジャストである。
 ドアが内側に完全に開ききると、中から妙齢の女性が一人こちらに向かってきた。
「ようこそいらっしゃいました」
 鈴のような声で俺達に声を掛ける。見た目は30代後半というところだろうが、その声と醸し出す雰囲気のせいだろうか、20代にしか思えなくなってくる。ようはかなりの年齢不詳だ。
「私、この島の責任者を勤める、霧下リリスと申します」
 そういうとリリスはにこやかな笑顔とともにお辞儀をした。ゆっくり顔を上げると、俺達な顔をじっくり見回し、再び笑顔で口を開いた。ただし今回は魔性の笑みだが。
「死人が総べる島、暁の眠らぬ島へようこそ」
 ……だから来たくなかったんだ。

 リリスの案内で、俺達はまずリビングルームに案内された。屋敷の大きさの割りに、一部屋一部屋は以外に小さかった。その分数は半端じゃないのだろうが。お互い向かい合い席に着いた。ものは小さいが、なんてふかふかなんだこのソファは。まさに量より質か。
「長旅でお疲れでしょう、お茶でもどうですか?」
「すいません、では遠慮なく」
 相変わらず図々しいな、凛のやつは。少しは遠慮せんか、最終的の頂くことになっても。そこが大人の世界だろうが。
「ちょうどいい紅茶が入ったんですよ」
 そう言うやいなや、手を叩く。音が消えたと思った瞬間、数人の使用人たちが道具を携え部屋に入ってくる。早っ!
 滑らかな動作でお茶を入れ始める。どうも最近は紅茶に縁があるな。別に嫌いではない、というか好きなほうだが、こうも続くと珈琲なぞが飲みたくなるのが人情というものである。もしくは緑茶かな。
「どうぞお召し上がり下さい。ちょうど焼きたてのスコーンもございますから」
 完全にイングリッシュスタイルである。たまには悪くないか。口の中に唾が溜まる。どうやら腹が減っていたようだ。考えたら10時間近く何も食べてなかったな。
 礼を言いながら俺は紅茶に口をつける。ごめんなんさい、さっきの僕は間違ってました。この紅茶が飲めるなら、珈琲も緑茶もいりません。それぐらい美味かった。この間凛の屋敷で飲んだものよりも数倍美味かった。こんなものを飲める幸せを噛み締めつつ、片隅では一杯幾らなのか計算していた。貧乏性が抜けないな……。
「どうやらお気に召したようで」
「ええ、大変美味しいです」
 リリスはこちらを見てくすくす笑っている。何がおかしいんだ? そんなに俺は幸せそうな顔をしてたのだろうか。俺は首を傾げながら、隣を見る。納得。凛がもの凄い勢いでスコーンをほお張っていた。
 お前は………。
「す、すいません!」
「いえいえ、可愛らしいお嬢さんですね」
 なんて心が広いのだろうか、俺ならきれてるぞ。リリスの笑顔を見るたびに顔が赤くなっていくのを感じる。そんな俺をしり目に、凛はスコーンを食べ続ける。気づけばもう半分も残っていない。まったく俺も食べたかったのに。それにお前ジャムつけろや、よく何もつけないで食えるな。飽きないかお前。
「? どうしたの」
 俺は声もなく凛の頭をはたいた。長い黒髪が馬の尻尾のように跳ねる。相変わらずリアクションが大げさだ。ちなみに今日の凛の髪型は、髪を左右二つに縛っている。俗に言うツインテールというやつだ。おまけに縛ったのは俺である。
「痛っ!ひどいなーまーちゃん、何するのさー!」
「教育的制裁だ」
 凛は何で叩かれたのかわからないらしく、目をきょろきょろしている。頭の上にクエスチョンマークが見えるようだ。
「お二人は仲がよろしいのですね」
 こんな漫才を見て、どこが仲が良いと言えるのだろうか。まあ好印象を与えたのなら良かったが。これから1週間お世話になるのだから。
「すいません、突然なんですが、実験の件はどうなっているのでしょうか?」
 今まで静観していた茉莉華が話を切り出した。それが今回の旅の目的だったのだ。考えたら、何をするのか俺はまったくわかってないぞ。大体俺が必要だったのか?
「あなたはどの程度お知りなのですか?」
「ええ、恥ずかしい話なんですが、私も実験を行うからこの島に行けとしか聞いてないんですよ。ここに行けばわかるとしか聞いてないので」
 それまでちらちらと俺を見ながら口を尖らしていた凛も、うんうんと頷いている。こいつも知らなかったのか、そんなもんに俺を簡単に連れてくな。
「そうですか、それで良いのですから」
「どういうことですか?」
「今回あなた方も含めて9人の方々が来るんですが、その中に数名HOCSの方が混じっているのです。彼女らが、この閉鎖空間において一体どんな反応を示すのか調べるのが今回の実験なんです」
 そこまでは理解している。そのために俺達は何をすれば良いのかが問題なのだ。
「焦らないで下さい。話はこれからですよ」
 顔に出ていたのだろう、爽やかに俺を諭す。うーん、どうもこの人と話しているとペースが乱される。もっとも自分のペースで話せる相手なんてそうそういないんだが。
「ようはHOCSの方々が他のHOCSの人と接していると、どんな影響が出るのかを観察するんです。肉体的、精神的、さらには無意識のうちに生態CPUにも影響がでるのかどうかなどを。ですから、皆さんは特に何かして頂くわけではないのですよ。むしろバカンスだと思ってのんびりして下さい」
「それでいいんですか?」
「ええ、細かいことはこちらがしますので。むしろ皆さんが意識しないほうが、正確な結果が出ますからね」
「だってさ、良かったねまーちゃん。のんびりしよう」
 ってお前は普段から何か頑張ってるのか?俺は日々精進してるから、確かにいいバカンスですが。
「では何故私がよばれたのでしょうか?」
「もし何かアクシデントが起きた場合のためですね。実験の観測は出来ますが、病気や怪我などの対処は出来ませんから。ですから茉莉華さんも基本的にはのんびりしてください」
 HOCSは脳に生態CPUを埋め込んでいるために、通常の人間とは治療法が異なるのである。そのため、ちょっとした擦り傷でも専門家が治療するはめになる。そのため茉莉華が呼ばれたわけである。彼女は肩書きどおり、HOCSの専門家である。
「そういことでしたら、お言葉に甘えて。私もバカンス気分で楽しませていただきます。一週間どうぞよろしく」
「こちらこそよろしく」
 お互い軽くお辞儀をした後、目が合わせて笑った。美女二人が良い雰囲気というのは見ていても気持ちの良いものである。あわよくばあの中に交ざりたいものだ。
「いてっ!」
 突然太ももに痛みが走った。まるで、何か丸い鈍器で殴られたような痛みだ。何だ、何が起こった?
「鼻の下が伸びてるよ、まーちゃん」
 横を見ると凛がふくれっつらで握りこぶしを振っている。原因が判明した。なんてことはない、こいつが思いっきり殴っただけじゃねーか。ただし全力で殴られたが…。痣にならなきゃいいが。っていうか、何で考えてることばれた?あんたエスパーですか?
「ふふふ、凛さんはラブラブなんですね」
「コメント間違ってません…」
 俺は痛みに耐えながらリリスに突っ込んだ。この光景を見てそのコメントが出るなんて天然か? しかもラブラブって。霧下リリス恐るべし、磨けばまだまだ伸びるんじゃないか。
「あの、もう一つ質問があるのですが」
 何事もなかったかのように茉莉華が口を開く。俺ってそんなにどうでもいいの?
「もしかして、リリスさんもHOCSなのですか?」
「ええ、そうですよ。黙っているつもりは無かったのですが、きっかけがなくて。聞いていただけて助かりました」
「やはりそうですか、実験の結果をどのように計測するのかと思いましたが。それなら確かに安心ですね」
「リリスさんも私と一緒なんだ。わーい、友達だね!」
 一人とんちんかんな発言した奴がいたが、そこは無視だ。リリスもHOCSなのか。まったく、この後もぞろぞろとHOCSの方々が大勢いらっしゃるとの話だが、世界最高機密がこの島に勢ぞろいときたか。全世界に何人いるのかは知らないが、これだけの人数が揃うの過去に一度もなかっただろう。
 つまりこの島が今存在、一番世界中から狙われる場所になるわけだ。
 やれやれ、また胃が痛くなりそうだ。もっともこの島にいる限りは安全だろうが。だからこそここが選ばれたのだが。
 久しぶりにたくさん話したのだろうか、リリスは一息つくと紅茶に口を付けた。こんなに島にこもりきりでは、いくら使用人が大勢いるとはいえ会話に飢えるだろう。そういう意味では、凛みたいな奴が気軽に話しかけるのも、良い気分転換になるのかもしれない。俺なんか萎縮して、あまり話せないだろうから。
 優雅なしぐさでカップを置いた。その左手には指輪が無いところを見ると、結婚はしていないようだ。もし結婚出来たら逆玉の輿か、ただし退屈だろうが。
「また変なこと考えてるでしょう」
「…お前超能力はさすがになかったよな」
「まーちゃんのことだけは、完璧にわかるんだよ」
「愛の力は偉大ですわね」
 前言撤回。この人と結婚した日には頭痛に悩ませられる毎日だろう。禿げだけは勘弁したい。
「あらあら私としたことが、長旅でお疲れですよね。今部屋に案内させますから」
 俺の表情を見て思い出したのだろう。それ程疲れた顔をしていたのか。簡単に感情を出してしまうなんて、俺もまだまだ修行がたりないな。
「架賀巳、架賀巳いらっしゃい」
 リリスが呼ぶやいなやドアが音も無く開く。この速さが想像するに、ドアの向こう側で待機していたのだろう。いつ呼ばれるかも分からないのに。またそっちの人ですかい。ため息。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「ええ、この方々をお部屋に案内してさしあげて」
「かしこまりました」
「そうだ、ご紹介しますわ、これは私の身の回りの世話をしている架賀巳です。屋敷の管理者でもあるので、何かわからないことがあったら何でも聞いてください」
「架賀巳千尋(かがみ ちひろ)と申します。どうぞよろしく」
 挨拶とともに頭を下げるその女性にふさわしい言葉が頭をよぎった。男装の麗人。これしかない。服装はもっともポピュラーな女性用メイド服なのだが、首から上、つまり顔を見る限りその言葉が最適ではないだろうか。軽く耳に掛かる程度のショートカット、凛々しい眉に切れ長の目、なんともクールな顔立ちでいらっしゃる。
 ハンサムな顔に、清楚なメイド服のアンバランス差、なんとも淫靡である。これはこれでたまらないものが…。
「まーちゃん!」
 再び握りこぶしが俺を襲った。今度はこめかみに。がん!、という音と同時に俺の視界に花火が広がった。そしてそのまま意識がフェイドアウトしていく。
「こら!」
 今度は突然体が引っ張られる。おかげで意識は戻ってきたが、何が起きたのかさっぱりわからない。顔を上げると目の前にはぽかんとしたリリスと架賀巳の顔があった。腕に弾力を感じそちらを見ると、凛が俺の腕をしっかりと胸に抱いていた。
 この状況から考えられる結論は、凛の打撃を受けた俺が意識を失くした。結果、支える力を失った俺の体が、茉莉華の方に倒れそうになった。茉莉華に寄りかかる直前に凛が俺の体を引っ張った。これしかないだろう、俺って天才? 誰でもわかるって? ごめんなさい調子に乗りました。
「もう今度は茉莉華ちゃんに手出して、この浮気者!」
 手出すも何も、倒れそうになっただけじゃねーか。しかもその原因作ったのはお前だろうが。
「…どの口でそんなこと言うんだ?あん、この口か」
「ひはははは(いたたたた)!」
 さすがに頭にきて、俺は凛の口を左右から引っ張った。目に涙を浮かべながら、非常に間抜けな顔で痛がっている。たまにはおしおきも必要である。
「そのぐらいでよろしいんじゃありませんか?」
 リリスの声で俺は手を離す。真っ赤になった頬を押さえて凛は俺を睨んでいる。上目づかいに涙目、おまけにこの容姿、さらには周りからの冷たい視線。これじゃまるで俺が幼児虐待したみたじゃないか。悪いのはこっちだろうが。いつの世も男は弱いものだ。
「まーちゃんの馬鹿ー! 痛いじゃないか!」
「当然の報いだ」
「しかも私の胸触ったし」
「お前が掴んだんじゃねーか!」
「H」
「最低ですね」
「責任取りませんとね」
「…変態」
「……」
 凛、茉莉華、リリス、架賀巳の順で言いたい放題ぼろくそである。俺何か悪いことしましたか? そんなに俺が悪いのか? 触るもの皆傷つけるぞ!
「さて、お二人の漫才も終わったところで、早速案内していただけますか」
「ええ、ではどうぞこちらに」
 俺ってどこまで報われないのだろうか。前世で何かしたのだろうか。
「ほらまーちゃん行くよ、いつまでも拗ねてないの」
 誰のせいだよ…いやいやいつまでも引きずってもしかたない、部屋で休むとしよう。こういう時は寝るに限る。
「七時から夕食の予定ですので。あともう少ししたら他の皆さんも来ると思いますので。ではまたのち…」
「お嬢様!」
 突然バランスを失いリリスがソファーに倒れた。慌てて架賀巳がリリスに駆け寄る。
「大丈夫ですか、お嬢様!」
「…ええ、平気ですよ。すいませんね皆さん。最近忙しかったせいで寝不足なんですよ…」
 おそらく寝不足による貧血なのであろう。顔が真っ青である。もしかしたら元来体が弱いのかもしれない。さっきまでは何ともなかったのだが、突然倒れるのだから。いや、貧血なんて突然くるものか。
「すいません、私はお嬢様の面倒を診なければならないので、案内はすぐに他の者させますので」
「かまいませんよ、それよりも安静にしてください、リリスさん」
「……」
 意識を失ったらしく、リリスからの返事はなかった。それ程に疲れていたのか、それとも何か病気でもあるのか。とにかくここは早々に退散したほうが良さそうである。
 架賀巳が携帯のようなもので連絡をすると、すぐさま使用人が数人現れた。
「お前達、その方々をお部屋に案内して差し上げなさい」
 頷いた使用人達に案内され、俺達は部屋を出た。部屋を出る直前後ろを振り返ると、架賀巳に背負われ奥に消えていくリリスの姿が見えた。完全に意識がないらしく、リリスの腕がゆらゆらと揺れていた。まるでその姿は糸の切れた操り人形のようであった。


 ベッドの上で何をするわけでもなく、タバコを燻らしていた。いい加減紫煙の行方を追うのにも飽きたため、俺は部屋を出た。
 夕食までは後4時間ほどあるため、それまでは各々自由に行動しようと言うことになった。俺は疲れたので、仮眠でもしようかと思ったが凛が。
「一時間ぐらいしたら私の部屋に来て。そのぐらいしたら支度や片付けも終わると思うから」
 等とほざいたため、寝るわけにもいかなくなった。茉莉華は急ぎの仕事があるらしく、時間まで部屋にこもるとのことだった。わざわざここまで仕事を持ってくるなんて、とても真面目な人だ。俺も再来週提出のレポートがあるのだが、何にも持ってきちゃいない。駄目大学生である。
 何もしていないと、思ったよりも一時間は長く、10分程で落ち着かなくなってきた。することもないので、今のうちに屋敷の間取りを覚えておこうと思い、俺は屋敷内をうろつき始めた。
 さすがに広い屋敷であるため、行ける範囲を全て回ったらあっという間に一時間が過ぎていた。しかしおかげで大体の間取りは把握できた。
 この屋敷はコの字型をしており、全7階建ての建物になっていた。北に向かって口を広げ、その向かいの南側に先ほど入ってきた入り口が置かれている。便宜上、東、南、西棟と名づけるならば、南棟1階には最初に入ったリビングルーム、2階には大広間に遊戯室、3階には食堂が配置されていた。
 東棟は1階から3階まで全てが客室となっていた。反対に西棟は使用人達の部屋で埋まっていた。そちら側にはあまり奥まで入れなかったため、はっきりと断言は出来ないが、1階の一番奥の部屋がリリスの寝室で、その隣に架賀巳の部屋があるようである。それらの中に点在するように実験室やらもあるそうだ。
 4階から上は、基本的には使っていないそうだ。実際のところ、3階まで使わなくとも、9名程度なら1フロアで収容しきれてしまうほど部屋数がある。じゃあ何のためにこんなに階数があるんだ?まったく無駄な労力である。
 案内された部屋は、3階の並びの部屋だった。俺にもちゃんと一部屋与えてくれるとは、なんと心が広いのだろうか。てっきり物置にでも入れられるのかと思ったが。
 一時間を少し過ぎていたが、遅い分には構わないだろう。それに凛は行動が遅いから、少し遅れたほうが丁度良いに違いない。俺は凛の部屋のドアをノックした。
「……」
 返事がない。もう一度試してみるが、やはり返事はなかった。寝てるのか、それともどこかに出かけたのだろうか? もしかしたら中で倒れているなんて可能性もある。
 不安になりドアノブに手を掛けた。ノブは何の抵抗もなく回転した。どうやら鍵は掛けていなかったようだ。俺は「入るぞー」と一声かけ、部屋に入った。その時俺の目に飛び込んできたものに俺思わずたじろいてしまった。
「あっ…」
 空気が止まる。俺の発した声が虚空に吸い込まれていく。瞬間、全てのものが存在を否定した。全てが凍りつき、時間が止まったかの様に感じた。一体どれ程の時間が過ぎたのだろうか。長かったような気もするし、一瞬だったような気もする。その静寂は再び一つの声で破壊された。
「きゃぁぁぁぁーーー!!!」
 俺の目の前で凛が叫ぶ。その声を聞いた瞬間、思わず俺の体動き、凛の口を抑えた。しばらくもがいていたが、落ち着いたらしく体が力を抜いた。それを確認すると俺も口から手を離した。
「…Hだとは思ってたけど、まさかのぞきするなんて」
「…誰がのぞきだ、こら」
「私が叫んだの聞いて、焦って口押さえたじゃない。いかにものぞきがばれて慌ててる行動じゃない。声を聞いて他の人が来たら、まーちゃん一発で犯罪者だもんね」
 確かに慌てて口を押さえたが…でも突然騒がれたら皆こうしないか? だって俺悪くないんだよ。後ろめたい気持ちの表れと言われたらそれまでなんだが。
 改めて凛の格好を見る。タオルを一だけ体に纏っており、濡れた髪を下ろしているため、風呂上りなのであろう。おそらく、風呂を出た瞬間に俺が部屋に入ったしまったのだろう。部屋入った瞬間、大事なところこそ隠れているが、タオル一枚で下着も着けてない女がいたら、そりゃ時が止まるさ。スタンド使いも真っ青である。
「俺はちゃんとノックしたぞ、一言返事すればよかったじゃないか」
「だってシャワー浴びてたから気づかなかったんだもん。それにまーちゃん不法侵入じゃない」
「入られたくなかったらちゃんと鍵閉めとけ!」
「あれ? 鍵なんかあった?」
 この女は…。一回こいつの頭の中をのぞいてみたいもんだ。一体どういう思考回路してんだ。
「それよりまーちゃん、いい加減ドアしめない? 誰か来たらそれこそ犯罪者になっちゃうよ」
 言われてはっとした、今までドアが開けっ放しだった。俺は慌ててドアを閉める。そしてしっかり鍵も閉める。危なかった、しかしあれだけ騒いで誰も来ないなんて、余程防音設備がいいのだろうか。今回は助かったが、でも逆に誰かに襲われて幾ら叫んでも助けが来ないってことか? 防音が良すぎるというのも考えものだな。
 一息ついて俺は凛の方を振り返る。すっかり落ち着いたらしく、ベッドに腰掛けてリラックスしていた。どうでもいいから早く服を着ろ。
「何してるのまーちゃん、こっち来なよ」
「断る」
「何でー、折角こんな格好してるのに、何もしないの?」
「早く服を着ろ。目の毒だ」
「失礼しちゃうなー、もうー」
 タオル一枚しか纏っていないため、体のラインがはっきりと分かってしまう。そのうえ、濡れて体に張り付いているため、余計扇情的に見える。肌もしっとりと濡れ、何ともはや艶めかしい姿である。もしかしてこいつ計算してるんじゃないか?。そんなに俺をいじめたいか。足を組みかえるな!
「のぞかれるのは嫌だけど、ちゃんと言ってくれるなら何してもいいんだよ。私はまーちゃんのものなんだから」
 前かがみになりながら凛が囁く。鼻にかけた甘ったるい声を出してくる。ベッドについた両腕の間から、はちきれんばかりの胸が見えた。普通の成人男性がこんな状態で誘われた日には、もう無我夢中で胸の谷間に飛び込んだであろう。だが俺は普通じゃない。
「俺のものだってんなら、とっとと言うこと聞いて服を着ろ」
「ちぇー、折角のチャンスだったのに。最近まーちゃん冷たいよ」
「そんなことはない。俺は前からこうだ」
「はいはい、じゃあ服着るから向こう向いてて」
「言われなくてもそうする」
 俺はドアの方を向く。後ろからは凛が服を着ているのであろう、衣擦れの音が聞こえてくる。まったく、今日はついてない。胸ポケットから煙草を出し火を点ける。やはり煙草は良い。嫌なことを忘れさせてくれる。ほんのひと時だけだが、ないよりはましだ。何も安らぎがなくこの世界で生きていくのは、到底不可能だ。
「終わったよー」
 近くにあった灰皿で煙草をもみ消す。後ろを振り向こうとした瞬間、踏みとどまった。服を着たと言いながら、実は後ろを振り向いたら下着姿でした、なんてオチはないよな。いやいや、そこまで疑ってはさすがに可哀相だ。俺は反省しながら後ろを振り向いた。
「あん」
 本当お前は俺の期待を裏切らないな、悪い意味で。立っている凛の格好はまさに想像した通りの姿であった。白に淡くピンクが入った下着姿で凛のアホは立っていた。ご丁寧に角度のきついレースの下着姿で。お前何のためにこんなもん持ってきたんだ?
 俺は無言で凛に近づく。
「いやん、まーちゃん、だいた…きゃん!」
 俺のこぶしが凛の頭を殴る。
「さっさと服を着ろ」
「…はい」
 さすがに俺が本気で怒ったのに気づき、大人しく服を着始める。やれやれ、無駄な時間を過ごしたもんだ。結局凛が見た服は来たときとあまり変わらない白のワンピースであった。違う点と言えば、やたらあちこちにリボンが付いていることぐらいか。
「終わった」
「ったく、最初からそうしとけよ」
「だってー」
 むくれる凛を無視して話を進める。
「それで、何かようがあったから俺呼んだんだろ」
「うん、髪結んで」
「…それだけ? じゃないよね」
「それだけ。シャワー浴びようと思ってたから、そしたら髪解くでしょ、だからまーちゃんに結んでもらおうと思って呼んだの」
「別に下ろしててもいいじゃないか」
「やだよー恥ずかしいもん。それにご飯食べるとき邪魔」
「…全くお前はほんとに可愛いやつだよ。それでどんな髪型がお好みですか、お姫様」
「えへへ、いつもみたく二つにして」
「かしこまりました」
 俺は凛を椅子に座らせると、後ろに回った。そしていつものように凛の髪を結び始める。たまには下ろして行けばいいのに。恥ずかしいって、この髪型のほうが恥ずかしくないか。飯の件は分かるが。まあ本人が気に入っているならいいが。
「ほれ、終わったぞ」
「ありがとう、まーちゃん大好き!」
 無駄なことを考えているうちにあっという間に終わった。今ほとんど無意識でやってたぞ俺。もうすっかり手馴れたもんだ。
「今何時だ?」
「うーんと、5時前だね」
「あと2時間か。お前どうするんだ?」
「とくにすることもないんだよね、まーちゃんといちゃいちゃする予定だったから。おかげで予定が狂っちゃったよ」
 人の都合を考えずに予定を組むな。そこらに遊びに行くのとはわけが違うんだぞ。相変わらずの非常識ぶりだ。
「じゃあ暇つぶしにゲームでもする?」
「何か持ってきたのか?」
「えーと、ちょっと待ってね」
 そう言うと凛はバッグを漁り始めた。5つもあるバッグを片っ端から開けて中身をばらまく。人間離れした記憶力持っているくせに、どこに何入れたかも覚えていないのか。能力の使い方にむらがありすぎるぞ。それにどうせこれ片付けろの俺なんだろ…。
「あったあった。うんと、オセロに将棋にチェスに囲碁に麻雀にトランプ、あと花札にカルタもあった。どれがいい?」
 主だったゲームはほとんどあるじゃねーか。何でそんなに持ってきたんだお前。さすがに全部紙で出来た軽量化タイプだが。
「じゃあ…オセロでもするか。あんまり頭使わないし」
「そうでもないけどね。じゃあやろうか」
 普通のゲームでは、到底凛の計算能力の前では太刀打ち出来ない。オセロならなんとかなるかと思ったが甘かった。開始早々10連敗したところで、初めから四隅をもらうというハンデ付きで勝負したが、その後も連敗街道まっしぐらであった。
 結局時間まで勝負し続けた結果、37戦37敗であった。金輪際こいつとはゲームやるもんか!

 7時10分前になったので、俺達は凛の部屋を後にした。
「ねえ、茉莉華ちゃん呼ばなくて平気かな?」
「うん? お前じゃあるまいしちゃんと時間ぐらい確認してるだろうよ」
「私だってちゃんとしてるもん。でも茉莉華ちゃんって何かに熱中しちゃうと周りが見えなくなるタイプだからね。意外とよく遅刻するよ」
「なら一応呼んでいくか」
 長い間付き合いがあった凛が言うのだから間違いないのだろう。薄々思っていたが、やはりおっちょこちょいな一面があるようだ。
「茉莉華さん、時間ですよ」
 俺はドアをノックした。一瞬間があった後、中からばたばたと慌てた音が聞こえてきた。
「ごめんなさい!すぐ行きますから少し待っててください!」
「はらね」
「ああ、お前の予想通りだ」
 数分後、中から域を切らした茉莉華が現れた。来た時と一切格好が変わっていない。まあもともとフォーマルな格好だったので、何も問題はない。
「ごめんなさい、仕事に夢中になって、時計見てませんでした」
「いえ、まだ時間はありますから。それに食堂もそこ上ってすぐですし」
 茉莉華の部屋は、3階の階段のすぐそばに位置している。目の前の階段を上ればすぐに食堂である。7時まで後5分、十分間に合うだろう。
「早く行こうよ、もうおなかぺこぺこだよ」
「そうですね、待たしては失礼ですし」
 俺達は食堂に向かい歩き始めた。階段を上ると目の前に大きな扉が見えた。扉には漢字で「食堂」と書かれたプレートが貼り付けてあった。こういうとこでは普通英語とかじゃないのかな? やはりあの人の感性は不思議だ。
 茉莉華が扉を開けると、中には俺達以外のメンバーが勢ぞろいしていた。いかん、俺達が一番最後だったらしい。慌てて席に着こうとした。
「大丈夫ですよ、時間通りですので慌てなくて結構です」
 そうは言われても慌ててしまうのが人情だ。何か文法がおかしいが気にしている場合ではない。俺達は急いで自分の名前が書かれた席に座る。俺達が座ったのを見て、リリスが口を開いた。
「全員集まったようですね」
 リリスが手を叩くと、奥の厨房から、料理を抱えた使用人達がわんさかと出てきた。そしてあっという間に俺達の前に料理が並べられた。
「お気に召すかわかりませんが、うちのシェフ達が腕によりをかけて作りましたので、どうぞご堪能下さい」
 口に合うかどうかと言っているが、その並べられた料理の数々は先ほどから俺の胃袋を刺激しっぱなしである。隣に座っている凛は、涎を垂らさんばかりの顔をしている。みっともないからやめなさい。
「他にも色々と用意しておりますが、最初は皆さんワインをどうぞ」
 その言葉を合図に空のグラスにワインが注がれる。さすがに未成年の凛にはワインではなく、葡萄のジュースが注がれた。
「では皆さん、この良き出会いに乾杯!」
 掛け声と共に皆一斉にワインに口をつける。貧乏学生の俺にワインの良し悪しなど分からないが、少なくともこのワインだけは上質のものであるのは間違いなく分かる。一体この1杯が幾らするんだろうか?
 他の一同もワインや料理の味に満足しているらしく、しばらく無言で食事が続いた。皿から半分ほど料理がなくなろうかという時、リリスが再び口を開いた。
「ここにいらっしゃるのが、今回お集まり頂いた皆さんですが、まだお互い面識のない方もいらっしゃると思いますので、宜しければ自己紹介でもお願いできませんか」
「確かにそうだね。何人か見たことある顔はあるが、全員は知らないからな。では僭越ながら私からさせてもろうかな」
「ええ、どうぞお願いします」
 そういうとリリスの横に座っていた女性が立ち上がった。座っていると分からなかったが、かなり背丈のある女性である。
「私は在膳清香(ざいぜん・きよか)。もちろんHOCSだよ。一応表向きの肩書きとしては、ソフト開発を行っている会社の最高取締役をしている。めったに人前に出ることはないんだがね」
 そういうと在膳は右手を胸に当てお辞儀をした。
「あと隣にいるのが私のパートナーの弐瑠花凪(にるばな・なぎ)だ」
「どうも凪と申します」
 凪も立ち上がりお辞儀をする。なんとも大人しそうな人である。在膳がいかにも気が強そうだから、これはこれでバランスが取れているのかもしれない。
「彼は私の補佐というのが肩書きになっている。所詮表向きでしかないが、これでも私の会社はなかなかがんばっているみたいでね、何か入用があったら気軽に声を掛けてくれ。同族からの依頼ならば、いつでも引き受けるのでね」
 そういうと、再び頭を下げ席に着いた。彼女が言った同族という言葉が気になった。この手の単語を使うということは、自らの境遇に優越感を抱いているか、もしくは劣等感を抱いているかのどちらかしかない。どちらにせよあまり良い感情ではないことは確かだ。
「では次は私が」
 在膳が着席したのを見て、凪の横に座っていた女性が立ち上がった。丸いテーブルに、リリスを含め10人の人間が座っているが、リリスを中心に反時計回りに進んでいくことになったようだ。すると、リリスを中心に在膳達と反対側にいる俺達は最後ということか。まいったな、こういった時に最後というのは苦手なんだよな。まず人前でしゃべることが苦手なのにオチまで任されたら日には、緊張のあまり倒れるかも。ああ、別にオチはいらないのか。
「私の名前は比良坂泉黄(ひらさか・みよ)と申します。一応小説家を生業にしています。本名で書いてますので、もし書店で見かけたらどうぞご購入下さい」
 いかにもお嬢様といった感じの泉黄が丁寧にお辞儀をした。先ほどの在膳とまたかわって打って、なんとも儚い女性である。思わず守ってあげたくなるよな人である。結構好みかも。
「彼は私のパートナーの神馬澪(かんま・れい)です」
「どうも神馬澪です。泉黄の編集者をやっています」
 なんとも爽やかな青年である。この二人が並ぶと、さながら純愛小説の主人公のようである。なんか羨ましいな。
「1週間どうぞよろしくお願いします」
 二人同時にお辞儀をすると、同時に着席した。何とも息が合っている様子である。座った後目をかわして笑いあっているところをみると、HOCSとパートナーとしてだけではなく、私生活でも深い関係にあるようだ。なんともはや羨ましい限りだ。
「それじゃ、次はわたしですね」
 そう言って立ったのは見事な金髪を、豊満なボディの上に乗せた女性だった。
「私はクリス・エル・フェルナンデス。みての通り西欧の血が入ってるよ」
 容姿を見る限り間違いなく日本人ではない。だがその割には日本語が達者ではないか?
「知ってるとは思うけど、私達は親がいないでしょ。当然私も自分の親が誰だかわからないから、実際どこの地が流れてるかわからないんだ。まあ容姿からして西欧系には間違いないんだけどね。だから名前は自分で適当に付けたんだよ。日本語が話せるのは、私を育てた人が日本人だったから、今では5ヶ国語ほど話せるけど、昔はこんななりして日本語しか喋れなかったよ」
 よく喋る人である。いかにもラテンですといった感じだ。本人が分かっていなくても、やはり遺伝というものは自然と現れてくるもののようだ。
「それで、これが私のパートナーの有無人夢(ありな・ひとむ)。一応デザイナーをやってるんだ。それで私がその専属モデルってことになってる。あんまりメディアには出ないよ。当然だけどね」
 そういうクリスは屈託のない笑顔を見せた。
「ほら人夢も挨拶しなよ」
「…有無、人夢です…よろしく…」
 天真爛漫という言葉ぴったりくるクリスとは正反対で、有無夢人という人物はとても暗かった。ぼそぼそと喋るので、まるでしわがれ声のように聞こえてくる。見た目はとても若々しいのに、声で損をしている。
「こら、もっとはっきり喋りなよ。ごめんね、こいつ引っ込み思案で、いつもこうなんだ。悪い奴ではないから仲良くしてやってね」
 クリスが頭をむりやり下げさせる。不承不承頭を下げる人夢。そのままこちらを見ることなく席に着席した。こいつ友達いないタイプだな。でもこんな奴に限って、意外にもてたりするから世の中わからない。
「じゃあ最後は私達だね」
 意気揚々と凛が立ち上がる。常識がないくせに、こういうときだけはやたらはりきるのだから困ったものだ。あんまり恥ずかしいこと言うなよ。
「えーと、名前は月詠凛(つきよみ・りん)。ぴちぴちの16歳だよ!」
 自分でぴちぴちとか言うなよ…。
「一応資産家の娘、ってことになってるけど、実際はただのプータローです」
 笑いながら言うことじゃないだろう…。頭痛くなってきた。こっそり茉莉華の顔を伺う。さすがの彼女も顔が引きつっていた。
「とりあえず若さがとりえの清楚なお嬢様です!」
 もう僕を帰してください。
「それでこっちが私のパートナーのまーちゃんです」
 ある意味ここからが本番である。少なくとも俺と茉莉華の二人はこいつと同類とは思われたくない。
「どうも、不可抗力で凛のパートナーをしている斑です。現在大学3年ですが、目下就職先を模索中です。どなたか人員を募集中でしたら気軽に声をお掛け下さい」
 よし、完璧な挨拶だ。これで少しは凛のアホのフォローが出来たことだろう。これできっと茉莉華も話しやすいはずだ。そう思い俺は茉莉華の方を見る。何故か俺の予想とは大きく違い、呆れた顔をしている。何かまずかったですか?
「…えー、最後になりますが、生体電脳演算機体学者の美弥之裡茉莉華と申します。以前凛さんを見させて頂いたご縁で、今回こちらに訪れることになりました。どうぞ1週間よろしくお願いします」
「よろしくねー」
 茉莉華がお辞儀をしている横で、凛が無邪気にはしゃいでいる。果たして周りの反応や如何に。
「ふふふ、面白い一団だね。1週間飽きそうにすむよ」
 在膳が苦笑しながらこちらを見ている。少々不可解な反応だが、好反応のようなので安心した。
「ところでそこの君」
「俺ですか?」
「ああ、君のその名前は本名なのかな?」
「いえ違いますよ」
「まーちゃんはまーちゃんだよ。好きに呼べばいいよ」
 お前が勝手に決めるな。別にかまわないんだけどさ。
「そうか、では考えておくとしよう。私はとても君が気にいったよ。初対面の人間にいきなりあざなを答えるとはね。とても愉快な人間のようだ」
 何か複雑な気分だが、気に入られたのなら良しとしよう。やはり人間初対面の印象が大事である。
 俺達は一斉にお辞儀をすると、誰かられもなく席に着席した。ふう、まずは第一次関門突破だ。これから1週間、凛の尻拭いかと思うと気が滅入ってくる。
「これで全員ですね。私の紹介はすでに済んでますので軽く」
 リリスは言いながら席を立つ。右手に持ったワインがとても似合っている。年齢以上の貫禄を感じてしまうあたり、さすがである。こんな所に住んでいれば、嫌でもこうなるのだろうか。
「霧下リリス、この島の管理者です。年齢は秘密ということで」
 まるで悪戯がばれた子供のように微笑む。その姿を見る限りではまだまだ若く見えるが、実際は気にしてしまう年齢なのだろう。
「もちろん私もHOCSです。皆さんがこの島に集まったのは実験のためですが、折角の機会ですので、滅多に会うことのない仲間との交流を楽しみましょう。2度目ですが、この良き出会いに乾杯!」
 リリスの掛け声で再び一同杯を傾ける。何度飲んでも良いワインだ。飲みすぎて酔っ払わないように気をつけなくては。
「最後にこれからのことを話したいと思います。そのままお食べになりながら聞いてください」
「実験のことですか?」
「ええ、そうです泉黄さん。すでに皆さんご存知ですが、今回はHOCSの方々が他のHOCSの人と接しているうちに、どんな影響が出るのかを観察するものです。ですので、皆さんには普段通りに生活して頂きたいのです。今日は紹介のため一同揃っての晩餐になりましたが、明日以降は自由にお好きな時間にお食事下さい。もちろん寝るのも起きるのも、その他何をいつしてもご自由です」
 そんないい加減でいいのだろうか。確かに細かい実験というのは極力条件を普段通りにするものではあるが。まあ「現神」が何を考えているのかなんて、俺になんかわかるはずはない。
「ただ最後の夜だけは皆さんご一緒でお願いします。実験の締めにというわけではないんですがね。折角ですので最後は皆さんでパーティーでも開きましょう。次の日にはお別れですからね。問題がござましたら随時こちらからお声を掛けますし、わからないことがありましたら何時でもお聞き下さい。何か質問はございますか?」
 皆無言で首を横に振る。その光景を見て納得したようにリリスが頷いた。
「それではこれで解散にしたいと思います。今この場から皆さんはご自由に行動してください」
 そのまま皆ちりじりになるのかと思ったが、誰一人席を立つものはいなかった。俺自身もまだしばらくワインや料理を堪能したかった。皆会話を肴に酒を交わしていた。ゆっくりと時間が過ぎていく。久しぶりにこんな時間も悪くはない。ただ横の凛はそうでもないらしくそわそわしている。普段は滅多に動かないくせに、こんな時ばかり落ち着かないようだ。まるっきり子供である。
「ねーまーちゃん、そろそろ行かない?」
「行くのはかまわないが、何をするんだ?」
「そうだね、どうしよう」
 そういうのは考えてから声を掛けなさい。
「凛さん」
 突然声を掛けられて凛が弾かれたように顔を上げる。俺も釣られて顔を上げると、澪がこちらを見て笑っていた。
「宜しければ、少し食後の運動でもしませんか」
「うん!」
 満面の笑顔で凛が答えた。俺達の会話を聞いて一肌脱いでくれたのだろう。見た目通りの好青年である。
「それでは行きますか」
「はーい、まーちゃんも行く?」
「ああ」
 3人一緒に席を立つ。そこまで体を動かしたかったわけではないが、凛を一人で行かせると何をしでかすか分かったものじゃない。こんな良い人に迷惑を掛けるのは心もとない。別に凛が他の男と二人っきりでいることに、嫉妬しているわけではないことははっきりさせておく。
「行ってくるよ。何かあったら連絡してくれ」
「ええ、こちらはこちらで楽しんでますから」
 澪が泉黄に声を掛ける。二人が近づくと、誰も近寄れないようなオーラが発せられているように感じてしまうのは俺の気のせいだろうか?これが仲睦まじいカップルの雰囲気なのか。俺には無縁の世界である。
 俺達は食堂を出、そのまま2階にある遊戯室に向かった。そこにはビリヤードに卓球、雀卓、はたまた2レーンだけだがボーリングまであった。なんじゃここは。
「さてそれでは何をしますか」
「うーん、じゃあ久しぶりにビリヤードでもしようかな」
「ええ、わかりました」
 凛は一人キューを取りに掛けていった。俺と澪はゆっくりとその後を追った。
「すいません、神馬さん。あいつの我がままにつき合わせて」
「いえいえ、俺もそろそろ出たいなと思っていたので丁度良かったですよ。どうも部屋にこもって酒を飲むというのは性に合わなくて」
「確かに神馬さんはいかにもスポーツマンて感じですもんね」
「そんなことはないですよ。体を動かすのは好きですけどね。あと、神馬じゃなくて澪でいいですよ。そうご丁寧だと落ち着かない」
「そうですか、じゃあお言葉に甘えます澪さん」
「どうぞどうぞ、えーと、斑さん?」
「別にこだわる必要はないですよ。「ま」さえ入ってれば俺はわかりますから」
「だからまーちゃんなんですね。そうだなー、じゃあ安直だけどまーさんで」
「かまいませんよ」
 俺達は目をかわして笑いあう。こういう気の合う同姓の友達というのもいいものだな。今まで友達らしい友達が出来ることはなかった。同じ環境のもの同士だからだろう。初めての友人かもしれない。
「二人とも早くー!」
「はいはい、わかったよ!ちょっと待ってろ!」
「お姫様がお呼びですね」
「急ぎますか」
 俺達は速度を速めて凛の元へ向かった。


 とりあえず何をしようかと話になり、まずは無難に9ボールでも、ということになった。俺も凛もビリヤードをするのは久しぶりだった。澪はいかにも上手そうに見えるが、本人曰く。
「それ程でもないですよ。たしなむ程度です」
 などと言っていたが、実際やり始めたら大嘘吐きであることが判明した。確かに勝率的に言えば凛が6割以上は勝っていたが、あきらかに本人の実力ではない。澪は順番が凛の前であるため、わざと凛が狙いやすい位置にコントロールしていた。こちとら普通に狙うだけがいっぱいいっぱいだってのに、他人を気遣いながらゲームできるなんてあきらかに「たしなむ程度」などではない。結局凛は終始それに気づくことなく、純粋にゲームを楽しんでいた。まあ人が幸せになれる嘘だからいいのだが。嫌みなまでに爽やかな好青年である。
 ちなみに手加減されても、俺の勝率は1割程度だった。凛が楽しいならいいんじゃない?別に負け惜しみではない。
「やったー!また勝った!」
「やりますね凛さん」
「それにしてもまーちゃんは弱いねー」
「よけいなお世話だ。手抜いてるんだよ」
「嘘吐き。折角澪ちゃんが手加減してくれてるのに」
 俺と澪は顔を見合わせる。まさかばれていたとは。思っていたより凛の奴は馬鹿ではなかったらしい。しかし年上の男に向かってちゃん付けはないだろう。
「だから澪ちゃんももう手抜かなくていいよ。これでまーちゃんも本気出せるよね」
 意地の悪い顔をして俺を見る。俺の実力を知っててこんなこと言いやがる。全く可愛らしくない。
 結局凛と澪の二人で勝負することになった。俺は疲れたと、適当な理由をつけて見学に回った。一服しながら、やらなくてよかったと心底思った。この二人のレベルには到底ついていけない。本気を出した澪の腕は半端じゃなく、俺と勝負したら間違いなく瞬殺だろう、俺が。それに凛の奴もしっかりとついっていっている。こいついつの間にこんなに上手くなったんだ?今まで俺とやってた時は手抜いてたのか?
「楽しそうですね。私もまぜてもらえませんか?」
「リリスさん、食事は終わったのですか?」
「ええ、他の皆さんはまだお酒を楽しんでますが、私は少し飲みすぎたみたいなんで」
 そのわりにはしっかりと立っているが。あまり顔には出ないタイプなのだろうか。
「そうですか、俺でよければお相手しますよ。何がいいですか?」
「私も久しぶりにビリヤードがしたいですね」
「かまいませんよ。ちなみに腕前の程は」
「素人に毛が生えたようなものですよ。きっとあなたの方が上手いんじゃないんですか」
 リリスの言葉を信じ、俺達はゲームを始めた。だが再び大嘘を吐かれたことになる。リリスは素人に毛が生えた程度なんて言ったが、実のところその腕前はプロ並みだった。当然俺などでは相手になるはずもなく、開始10分でこてんぱんにされた。今日は一体何なんだ?何やっても駄目だなー。厄年?
「まーちゃん弱いねー」
 俺が弱いんじゃない、周りが強すぎるんだよ。あまりにも相手にならたいため、お相手を辞退し、澪と交代した。しかし澪もリリスの前では歯が立たず、完全にリリスの独壇場だった。
「まあ、リリスちゃん相手じゃしかたないかな。私でも勝てる気がしないよ」
「だろ、あれで上手くないなんて言うんだから詐欺だよな」
 凛と二人でリリスと澪の試合を観戦していた。リリスのブレイクショットだった。左手に持ったキューが数回振り子のように揺れる。動きが止まり、精神を統一した後突然キューが消えた。いや、消えたわけではなかった、あまりにも動きが早いため、目が追いつかなかったのだ。
 慌てて白球の行方を目で追う。1番ボールにぶつかり、10個の玉が縦横無尽に暴れまわる。そして一つだけゆっくりと動いていた9番が穴に近づいて行き、そして落ちた。ブレイクエースである。こんなもん初めて見た。
「あらあら、入っちゃいましたね」
「完敗です。すごいですねリリスさん」
「澪さんも大したものですよ、いい勝負でした。よれしければ握手を」
 そういうとリリスは左手を出した。慣れない様子で、澪も慌てて左手を出す。いい光景だ。
「あれ、リリスさん体は大丈夫なんですか?」
 遊戯室に泉黄が入ってきた。ほろ酔いなのだろう、顔が赤くなっている。
「泉黄大丈夫かい? 顔が真っ赤だよ、リリスさんより君のほうが心配だよ」
 泉黄が子供のように口を尖らせて言い返す。確かにこんな顔されたら、子供扱いで心配してしまうだろう。
「私は平気よ、子ども扱いしないの。さっきリリスさんが急にふらふらして、飲みすぎたみたいだから先に部屋に上がるって言って出て行ったから。すごい顔も真っ青だったから皆で心配してたのよ。大丈夫なんですか、リリスさん?」
「ええ、少しや休んだらすっかり元気に。それで酔い覚ましに運動しようと思いまして」
「ならいいんですけど。無理しないでくださいね」
「ありがとうございます。でもまだ私は体にがたが来るほど年は取ってませんよ」
 泉黄の顔がさらに真っ赤になる。それを見てリリスがにこやかに微笑む。まるで仲の良い母と子のようである。
「ご、ごめんなさい。別にそんな意味はなかったんですけど」
「冗談ですよ。でも確かに若くはないですからね」
「それでわざわざどうした泉黄、何かあったのか?」
「え、べ、別に、何でもないよ」
「?」
 泉黄の顔がさらに真っ赤になる。よく表情が変わる人だ。こう手のひらの上でころころ転がしたい人である。弄ぶってわけではないぞ。
「ふふふ、どうやら私達はお邪魔のようなですね。他に行きましょうかねぇ、凛さん」
「そうだね、人の恋路を邪魔する奴は、毛布の角に頭をぶつけて死んじまえって言うからね」
 豆腐じゃなかったっけ、それって?古い言葉を知ってるのは立派だが、間違えてたら何の意味もないぞ。
「え、あ、いや、そ、そんなわけじゃないですよ」
 さらに真っ赤になった顔で泉黄が否定する。ここまでくればいくら鈍感な奴でも気づくだろう。ようするに泉黄はさみしくなって、澪に会いに来たというわけだ。うーん、何といじらしい。
「ここでは何をするも自由ですから、いやー若いっていいですね」
「そうだねー泉黄ちゃんは可愛いねー」
 澪と泉黄は顔を真っ赤にしてうつむいている。こう見るとまるで若夫婦のようである。たださ、凛。お前この島で一番若いだろうが、何だそのおばちゃんの台詞は。
「それでは行きますか」
「そうだね」
 それを合図に俺達は遊戯室を出た。去り際にリリスがさりげなく、ごゆっくりと言い残し部屋を出た。意外にこういう話が好きなようである。
「さて、どうしますかね」
「少し疲れたしお茶でもしたいかな」
「では1階に行きますか。それでいいですかまーさんも」
「え、ええ、かまいませんよ」
 リリスが突然名前を読んだので驚いた。リリスもまーさんか、覚えておかなくては。
 1階のリビングルームに移動し、そこでお茶をすることにした。リリスが呼ぶと、すぐに使用人が現れ、あっという間にお茶の支度を整えた。
「凛さんは何をお飲みになります?」
「私は紅茶でいいよ。まーちゃんは?」
「では珈琲をお願いします」
「かしこまりました」
 使用人が入れるのかと思いきや、おもむろにリリスが入れ始めた。意外に手馴れた様子である、普段から結構しているのだろう。
「どうぞ、不慣れですいませんけど」
「いただきまーす」
「戴きます」
 材料がいいのももちろんあるとは思うが、リリスの腕も決して悪くはないだろう。とてもコクのある良い珈琲だ。凛は紅茶にミルクやら砂糖やらがばがば入れている。そんなにいれたら折角の味がわからないだろうが。紅茶はストレート、珈琲はブラックが基本である。
「とても美味しいですよ」
「そう言っていただけたら幸いですね」
「ほんと美味しいよ!」
「それ程美味しいのなら、私にも一杯もらえないかな」
 突然後ろから声を掛けられた。慌てて珈琲をこぼしそうになった。後ろを向くと、そこには在膳とクリスが立っていた。
「お酒にも飽きたから部屋を出たら、下から良い匂いがしてきて思わず降りてきちゃったよ」
「あらあら、在膳さんにクリスさん、どうぞどうぞまだまだお茶はございますから」
「それでは失礼するよ」
「お邪魔します」
 在膳は珈琲を、クリスは紅茶を頼んだ。二人とも何も入れない、やっぱりそうだよな、お前が間違っているぞ凛!
「確かになかなかの味だな」
「そうだね、良い香りだし」
「今日はよく褒められる日ですね」
 褒められて満更でもないようである。とても大富豪のような生活をしている女性には見えない。街中で普通に会ったとしても、決してこんなバックを持った女性とは思えないことだろう。
 しばらくお茶を飲みながら団欒を続けた。途中凛がつまみが欲しいなどと言い出したため、目の前のテーブルの上にはチーズやクラッカーなど、数々の食品が並べられた。凛の常識の無さを最近とみに感じる。帰ったら少し躾しないとな。
 政治・経済の話から芸術の話まで多岐に渡って繰り広げられた。さすがに情報の申し子である彼女達の知識量は半端じゃなく、とても俺についていけるような内容ではなかった。その気になれば会話しながら情報を得られるのだから当然である。さすがに気づいてくれたおかげで、会話のレベルや詳しい説明を挟んでくれるようになった。ようやくこれで会話に参加が出来るようになった。しかし凛に負けたような気がして腹が立つ。あれでも一応はHOCSだからな。
 そして話題が俺達の将来に移った。俺達だけが唯一、表向きのためだけにしろ職についていないからだ。心配してくれたわけで、おばちゃん軍団の野次馬根性や、余計なお世話の成せる技ではないと思う。今のかなり失礼かな。
「凛君はこれからどうするんだい?」
「何が? 特に島での予定はないよ」
「いやそうではなく、先の将来の話さ」
「ああ、職業のことね」
 凛がチーズを頬張りながら答える。その様はまるで、冬眠前のシマリスのようである。
「一応考えてるよ、これでも」
「そうなんだ、聞かせて欲しいな!」
 クリスが食いついてくる。彼女はいかにも姉御肌という感じだから、この手の話にはつい反応してしまうのだろう。
 ただ凛がちゃんと先のことを考えているとは驚きである。この俺ですら初耳だ。少し寂寥感。
「あのね、お話を書きたいんだ」
「それは泉黄さんみたいな小説家ってことですか?」
「ううん、そこまではすごくなくてね、私は絵本が書きたいんだ」
「ほー! 絵本かい、それもまたいいねー!」
「うん、今少しづつ書き溜めてるんだ」
 さらに初耳である。こいつも成長するんだな。ただ何故俺に黙っていたんだろうか。後で教えてびっくりさせるというアレかな。
「ちゃんと本に出来るってわかってからまーちゃんには教えようと思ってたんだ。黙っててごめんね。もう初めて2年だけど、ようやくね」
 2年というと俺と出会ってから3年ほどしてからのことか。
「なかなかいじらしいじゃないか、まー君。君も満更ではないようだね」
「何がですか?」
「顔がさっきからにやついているぞ。まるで娘を見る父親の顔をしている」
 そんな恥ずかしい顔をしていたのだろうか。いかんいかん、顔を戻さなくては。俺は珈琲カップで顔を隠し、急いで自分を落ち着ける。
「でも凛さんならすぐに出せそうですけどね、結構かかりましたね」
「うーん、なるべく現神の力は借りたくなかったから。最初から最後まで自分の力でやりたかったから。皆もそうでしょう?」
 やばい、泣きそうだ。
「確かにねー、私はたまたまスタイルがよかったからこの道選んだけど、ここまで来たのは自分の力だね。おかげで人夢に会えたのは、神様からのごほうびかな。それにしても凛ちゃんは若いのにえらいね」
「最近の子は成長早いからね。それに私はもう16だもん。当たり前だよ」
 いつもの子供のような凛ではなく、どことなく大人びて見える。それは見た目の問題ではなく、中身から出てくるもののせいだろう。また顔がにやけては困るので俺は煙草を吸い、深呼吸をした。
「それで、どんな話を書いているんですか?」
「今度本になるのはウサギさんの話なの。来月には出るから皆買ってね」
「もちろんさ是非買わせていただくよ」
「私も私も、楽しみだね」
「今から待ち遠しいですわ」
「私、ピーター・ラビットのお話が大好きだったから。だから最初の話はウサギにしようと思ってたんだ。ルイス・キャロルは偉大だね」
「……」
 皆一斉に押し黙る。凛以外が顔を見合わせている。お前本当に好きなのか・そして本当にHOCSか?「ピーター・ラビット」はビアトリクス・ポターで、ルイス・キャロルが書いたのは「不思議の国のアリス」である。さすがにこの空気では誰も突っ込めないのであろう。皆が俺を見る。そのうち傷つかないように教えておきます。成長したと思ったのは間違いだったようだ。
「ん? 皆どうしたの?」
「…いえ、何でもないですよ…。他には何かありますか?」
 さすがにもうウサギの話を引っ張れないと踏んだリリスが、他に話をまわした。さすがである。
「今書いてるのは双子の話だね」
「双子?」
「そう、双子」
「どんな話なんだい?」
「ある所に双子がいるんだけど、あまりにも似ているから、そのうち自分と相手の区別が付かなくなっちゃうんだ」
 それ絵本の内容か?重くない?リリスさんもうつむいて考え込んでるぞ。
「それでまあ色々あって、お互いアイデンティティーを見つけてハッピーエンドってお話」
「それはなかなか深い話だな。子供だけでなく大人も読める話だね」
「うん、双子だからこそわかる人生観みたいなものを書けたらなーって。もちろん子供にも分かるようにだからなかなか難しいんだ」
「やっぱり実際に双子の人にインタビューとかしたの?」
「まあ似たようなことは」
「知らないうちにずいぶんがんばってたんだな、お前も」
「えへへー、偉いでしょー。褒めて褒めて」
「ああ、偉い偉い。あれ、リリスさんどうしました?」
 俺は凛の頭をなでながらリリスに声を掛けた。ふと見ると下をうつむいたまま、小刻みに震えていた。
「大丈夫かい?具合でも悪くなったのか」
「…いえ、大丈夫ですよ。ちょっと頭がぼーっとしただけです。寝不足だったもので」
「ああ、気づけばもう1時か。確かに寝不足にはつらいな」
「ちゃんと寝なきゃ駄目ですよ、リリスさん。寝不足はお肌にも悪いし」
「そうですね、ではお先に失礼して休みたいと思います」
 そういうとリリスは部屋を後にした。ドアを開ける時握った左手が真っ白だった。まるで思いっきり力をこめているようだ。ドアを開けるのにそんなに力はいれないだろうから、やはり疲れていたのだろうか。昼間も一回倒れたし。
「リリスちゃん疲れてるみたいだね。悪いことしちゃったかな、つき合わせて」
「かもな、明日からは少しは気を使えよ」
「うん、そうする」
「我々が来るから、支度やら何やらで急がしたかったのかもな」
「そうですね、食事の後もありましたし」
「昼間にもあったんですよ、俺達が着いた時です。でもさっき話を聞きましたけど、昼間もさっきも倒れた時は顔が真っ青だったそうですから」
「そうなのかい、それは知らなかった。しかし昼間もとはね」
「ええ、でも今は顔色は普通でしたから。そこまではひどくはないんじゃないですかね」
「それならいいんですけどね。明日からは気をつけないと」
「そうだね、リリスちゃんが倒れちゃったら、折角の出会いが台無しだから」
 彼女も色々大変なんだろう。思えばリリスさんにはパートナーがいないみたいだからな、それも関係してるのかも。機会があったら聞いてみよう。
「そういう我々が寝不足で倒れては何も意味がないよ。我々もそろそろ寝るとするかな」
「そうでうね、そうしましょうか」
「うん、意味なーい。うどんに腕押しだよ」
 それはのれんとの間違いかな?難易度高いぞ。
「では解散にするか」
 後片付けは使用人達が引き受けてくれたので、俺達は各々の部屋に戻った。在膳は1階、俺達は3階、そしてクリスは2階に帰っていった。
「明日はどうする?」
「特に予定もないけど、あんまり遅いのもあれだから、9時には起こして」
 起きるじゃなくて、起こしてなんだ。まあいいけどね、それにこいつが9時に起きるなんて珍しい。普段は太陽が昇りきる前は起きないから。
「はいはい、わかりました。それじゃおやすみな」
「まーちゃん」
「ん、何だ」
「一緒に寝よう」
「お断りします」
「何でー、けち!」
「そんなこと言うなら、まず寝相を何とかしろ」
 何か思うことがあったのだろう、部屋の前で固まった。気づいているならいいことだ。こいつの寝相は殺人的だからな。何度朝日を見ることなく永眠しかけたことか。
「んじゃおやすみ、お前も早く寝ろよ」
 俺は凛が動き出す前に部屋に入った。今日は長い一日だった。それに久しぶりにちゃんとしたベッドでゆっくり寝れるし。俺は寝巻きに着替え、煙草を吸う。1本吸うとそのままベッドに入った。
 横になるとすぐに眠気が襲ってくる。俺も疲れていたようだ。まだまだ先は長いんだ、明日からはのんびりするか。今日は散々な一日だったが明日は良い日であって欲しいものだ。
 そんな希望を抱きながら俺は眠りに落ちていった。しかしやはり、そんな淡い希望はかなえられることはなかった。