終焉、始動、そして崩壊


 耳元で無機質な電子音が響く。体がまどろみから無理やり引き離される。まったく、人の心地よい至福の時間を邪魔しやがって、無粋な奴だ。極刑に値する人物を特定すべく、嫌々ながらも目を開ける。開けた目に飛び込んできたものは、真っ白な天井に、小ぶりながらも確かに存在をアピールするシャンデリアがあった。
 あれ?うちの天井にあんなものあったっけか?それにうちの天井は黄みがかったベージュじゃなかったかな。そろそろ壁紙張り替えなくちゃな、それとも煙草を減らそうかな。
 余計な事を考えつつ、いまだ単調な音を繰り返しはき続ける携帯を手に取る。手に取った瞬間、現在の自分の置かれている状況を思い出した。とりあえず耳障りな電子音を停止させる。落ち着いたところで、枕元から煙草を取り一服する。ニコチンが頭に浸透したおかげか、だんだんと意識がはっきりしてきた。もっともそんなことはありえない、ただの思い込みである。
「…あぁ、なるほど」
 そうそう、ここは小さくとも素敵な我が家ではなく、大きくとも忌まわしい暁の眠らぬ島にある屋敷だったな。改めて時間を確認すると8時48分、昨日寝る前に凛の奴に起こしてくれって言われてたんだっけか。俺は煙草をもみ消し、楽園のようなベッドから起き上がる。離れるのは心苦しいが、また15時間もしたら会えるだろう。
 ベッドから離れると、まっすぐに洗面所へと向かった。顔を洗い、簡単に寝癖を直した。髪が大分伸びてきたが、こういう時すぐに直せるからなかなか便利である。部屋に戻り身支度を整える、ここまでの所要時間7分。時間を確認するとちょうど8時55分を回ったところだった。うむ、我ながら完璧な行動ではないか。
 部屋を出た俺は、まっすぐ凛の部屋に向かって歩き始めた。空き部屋の前を一つ通り過ぎ、目的の部屋に到着する。さて、今日は素直に起きてくれるかな?普段、ちょっとやそっとじゃ起きないのが凛である。以前あいつを起こすためだけに1時間費やしたこともあった程だ。途中から殴っても起きなかったのだから、それはそれである意味立派であるが。
 俺は意を決し部屋のドアをノックする。しばし待つが返事はない。再びドアをノック。やはり返事はない。これぐらいは日常茶飯事だ、俺はさらに力を込めてドアを叩こうとした。まさに手を振り上げた瞬間、ドアノブが音もなく回った。
「……んぁ〜、おはよう〜ま〜ちゃん」
「珍しいじゃないか、お前がちゃんと起きるなんて」
 ドアの向こうから、もの凄く眠そうな凛が姿を現した。しかしイチゴ柄のパジャマとはまた、べたべたも良いところである。
「…たまにはね〜。ま〜ちゃん、ちょっと動かないでね」
 そう言うと凛は俺に抱きついてきた。
「ちょっと凛さん?」
「…暖かーい、目覚まし代りだからちょっと待って」
 そう言われるとこちらとしても動けない。誰かに見られたら、言い訳など出来ない状況であるが、まあ誰も通らないだろうから。でも部屋の中に入ってからでも良かったんじゃない?
「……、…、ん、改めておはようまーちゃん」
「おはようさん、ところで目が覚めたなら離れてくれないかな?」
「別にいいじゃない、いつもしてるんだから」
 確かにこいつを起こすときの恒例行事ではあるんだが、だからとりあえず部屋に入らない?
「それにまーちゃんだって悪い気はしないくせに♪」
 さらにきつく抱きついてくる凛。下着を着けていない胸が俺に押し付けられてくる。普通なら喜ぶべき状況なのだろう。
「はいはい、いいから早く着替えなさい」
「まったくー、つまんない反応。それともまーちゃんホモ?」
「殴るぞ」
「ごめんなさーい!」
 俺が殴る振りをすると、慌てて凛は部屋に戻っていった。やれやれ朝から疲れさせてくれるよ。
「外で待ってるから早くしろよ」
「はーい」
 ドアの隙間から声を掛け、返事を聞くとそのまま閉めた。横の壁にもたれかかりしばらく着替えが終わるのを待ち続けた。10分ほど待っただろうか、ふいにドアが開き、凛が顔を出した。今日は淡い水色のワンピースですか。でも丈短くない?膝上30pはないか?
「終わったよー、髪縛ってまーちゃん」
「うん?早いじゃないか、今日はどうしたんだ?」
「だってまーちゃん待たしちゃ悪いじゃない」
「そう思うなら、いつもそうしてくれ」
 適当に相槌を返しながら部屋に入る。先を歩く凛がベッドに腰掛け、こちらを向いた。
「今日はどんな髪形がお望みですか、お嬢様」
「今日はポニーテールがいいかな。それとそこのリボンにして」
 ベッド脇のテーブルに薄い黄色のリボンが一つ置かれていた。なかなかいい色合いではないか。
「かしこまりました」
 まず凛の髪を丁寧に梳いてやってから、髪を一つにまとめる。この際、耳の横の髪、俗に言うもみあげ―正確には違うのだろうが―を残してやるのがポイントである。これをしてやらないとお気に召さないらしい。何が違うのかよくわからないが。
「…ほれ、終わったぞ」
「ん、ありがと、まーちゃん」
 凛は元気良く立ち上がると俺の目の前でくるくる回り始めた。一つに縛った髪と大きなリボンが跳ねて、とても活発そうに見える。ただスカートが短すぎるからちらちらと中が見えるのだが。
「どうまーちゃん、可愛い?」
「ああ、いつもより5歳は若く見えるな」
「もうーそんなに子供じゃないよ、失礼しちゃう」
「でもスカートからパンツ見えても気にしない年齢なんだろう」
 多少意地悪く指摘してやると、慌てて回転を止めスカートを押さえた。珍しいことにその顔をは真っ赤である。何か変なもんでも食べたのか?
「ばか!知らない!」
 いよいよ変である。いつもならここでスカートを捲りあげて、誘惑の一つでもしてくるものなのに。もしかしてこれは夢?まだ俺はベッドの中でまどろんでいる最中なのだろうか。思わずほほをつねる。痛い。どうやら夢ではないらしい。
「どうした、何かあったのか?」
「…あのね」
 思わず声を掛ける。それに恥ずかしそうに答える凛。こりゃ大事だ、最悪茉莉華さんに相談しなくてはならないかもしれない。
「…嫌な夢見たの…」
「夢?」
「うん、突然まーちゃんがね、私に愛想つかしていなくなっちゃう夢。訳を聞いたらお前の突拍子もない行動には嫌気が差したからだって。そこで目が覚めて、起きたらまーちゃんがいたんだけど、思い出したら怖くなって…」
「それでいつになくおとなしいと」
 小さくうなずく凛、なんだ、可愛いじゃねーか!おもわずドキドキする。
「で、でも、抱きついた後、いつもみたいにおちゃらけてたじゃないか」
「うん、最初はまーちゃんがいつも通りで安心したんだけど、夢を思い出したらだんだん不安になってきて、そしたらまーちゃんにからかわれたから…」
 それで急にしおらしくなったわけか。まったく、本当に俺を飽きさせない奴だよお前は。俺は立ち上がり、凛の頭を優しく抱いてやる。
「安心しろ、何があってもお前のそばにいてやるから」
 俺は凛を慰める。これは俺の本音なのか?それともその場凌ぎの言葉に過ぎないのか?
「本当? 嫌いにならない?」
 弱々しい声で聞いてくる。俺は頭を抱く腕にさらに力をこめる。これは俺が守ってやらなくてはならない存在だ、それは間違いない。 「ああ、むしろ突然変わられてもとまどっちまうよ。いつも通りのお前でいいんだよ」
 守っている?本当か、俺が依存しているのでは?こいつに拾われたあの日から…。
「よかった、まーちゃん好き!」
 凛が笑顔を見せた、俺はそれに安心する。少なくとも今の俺の居場所はこいつの横にしかない。
「うん、いい笑顔だ。そろそろいかないか? 俺は腹が減ったよ」
「そうだね、私もお腹減ったよ」
 腕から力を抜き、凛を開放する。声の調子もいつもに戻った。とりあえず一安心である。
「それじゃ腹ごしらえと行きますか」
「うん!」
 食堂に向かうため部屋を出る。部屋を出ると凛が俺の手を握ってくる。まだ本調子ではないようだが、たまにはこんなラブコメも悪くはないだろう。こうしていれば、余計なことを考えなくてすむ。
 俺は凛の手を握り返し歩き始めた。今はこの温もりだけを感じていよう。そうすれば何も思い出さなくてすむから。


 俺と凛が食堂に入ると、そこには弐瑠花と有無がいた。二人とも食事中のようだが、どうにも雰囲気が暗い。
「おはようございます、お二人とも早いですね」
「おはようございます、斑さん。これでも遅い方なんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、他の人たちはもう朝食を済ませたそうですから。私たちで最後らしいですよ」
「へー、皆早起きなんだね。私も久しぶりに早起きしたのにな、あっおはようー」
「おはようございます、凛さん。せっかくですからご一緒にどうです?」
「うん、もうお腹ぺこぺこだよ」
「ではお言葉に甘えて」
 俺達が席に着くと、音もなく使用人達が食事の用意を始める。気づけばあっという間に目の前に料理が並べられた。どれもからっぽの胃を刺激してくる、非常に食欲をそそられる。
「いただきまーす!」
「いただきます」
 声をそろえ食べ始める。さてまずはスープを一口。
 ……うまい!
 俺と凛は一度顔を見合わせると、一心不乱に食べ始めた。かなり腹が減っていたらしい。むさぼるように食べ、あっという間に食べ終わってしまった。
「ふぃ〜おいしかった〜」
「二人ともいい食べっぷりですね」
「ええ、とてもおいしかったので思わず」
「わかりますよ、私もそうでしたから。実はこれ2食目なんですよ、おもわずおかわりしちゃいましてね」
 そういうと弐瑠花は照れくさそうに頭を掻いた。
「人夢ちゃんも2食目?」
 有無が声を掛けた凛に静かにうなずく。先ほど気づいたのだが、どうも雰囲気が暗いのは、二人の性格にあるようだ。弐瑠花は比較的饒舌なのだが、如何せん低トーンでのんびり話す。有無にいたっては基本的に声を出さないし、たまに相づちを返してもぼそぼそと話す。食べながら聞いていたのだが、会話的にはかなり盛り上がっていたようなのだが、それらのおかげでどうにも暗く感じる。何とも不思議な二人だ。
「弐瑠花さん、他の人達は何してるんですか?」
 俺も凛もおかわりを頼み、2食目を楽しみながら弐瑠花に聞いた。今度は味わいながらゆっくりと食べよう。
「凪で結構ですよ、弐瑠花では言いにくいでしょう。えーと、清香と黄泉さんは二人で森に向かいましたよ。後、さっき架賀巳さんに聞いた話だと、澪さんとクリスさんは軽く食後の運動をしに行ったそうです。茉莉華さんとリリスさんは部屋に籠もって仕事だそうです」
 あっさりと答えたが、この島にいる人達の行動をほぼ完璧に把握しているではないか。なんという情報収集能力だ。
「驚かれたようですね、一種職業病なんですよ。仕事柄よく情報を集めるもので、つい癖で。でもたまたまですよ、さすがに人の行動をいちいち把握したがる程悪趣味ではないですから」
「いやいや大したものですよ、そこまいけば。お前も少しは見習え」
「へ?」
 パンを咥えながら顔を上げる。みっともないからやめなさい。
「さすがにHOCSの方には勝てませんよ。その気になれば知れない情報がないんですから」
「普通はそうなんですがね、こいつの場合は自分でやれば一瞬で調べられるのにわざわざ人に頼むんですから」
「それはまーちゃんに少しでも知識をつけてあげようという、私の優しさだよ」
「だったらお前が調べて俺に教えてくれればいいじゃないか、そのほうが時間の無駄がなくていい」
「それじゃ身につかないからね、何事も自分でやらなきゃ」
「お前が言うなお前が」
 俺達を見ながら凪はくすくす笑っている、横を見ると、有無も小さくだが笑っているではないか。そんなに俺達のやりとりは面白いのだろうか?
「笑ってないで有無さんも何か言ってやってくださいよ」
「…人夢、でいいよ…」
「は? ああわかりました、人夢さん」
「…この場合、凛さんが悪い」
「にょ!! 私!」
「ほれみろ、少しは勤勉になれ」
「そんなー」
「持っている能力を、最大限に使わないのは、愚か者のすることだ…」
「ふえーん、皆して私をいじめるー!」
 そういうと、泣きながら凛は食堂を出て行った。立ち上がった瞬間、俺のこめかみに肘打ちをいれるというおまけつきで。痛い。
「…この場合、私も入るんですかねー…。大丈夫ですか、斑さん」
「…ええ、なんとか…」
 そうは言いながらも、しばらくは起きられそうにない。ピンポイントで入れて行きやがった、頭がくらくらする。
「人夢さんも言い過ぎですよ、女の子はもっと大事に扱わないと」
「…反省」
 人夢さんは悪くない、悪いのは全部あいつだ!
「そろそろ追わなくていいんですか、斑さん?」
「…そうですね、すいません、みっともないとこお見せして」
「いえいえ、傍から見てる分には面白かったですよ。本当に仲睦まじいことで」
「そうですか? そんな風に見えます?」
「ええ、今のも皆からいじめられたからというよりは、斑さんの前で恥ずかしかったからでしょうね。それ程に好かれているんですよ」
 はたしてそうだろうか。あいつがそんな殊勝なことを考えているたまか?まあ何にせよ、このままほっといたら何をするかわかったもんじゃないからな。
「それじゃ、すいません、お先に失礼します」
 俺は立ち上がり、二人に頭を下げると食堂を出た。やれやれどこまで行ったことやら。無駄にこの屋敷は広いからな、そう簡単に見つかるかどうか。
 しかし、おもったよりあっさりと行方がわかった。途中使用人に聞いてみると、一目散に海岸に向かって走って行ったと言う。ただし、調度品にぶつかりまくってだが。その使用人も掃除のためにそこにいたわけである。
 俺はその人に何度も謝った後、海岸に向かった。屋敷を出て5分も走ると海岸に出た。あたりを見回すと、澪とクリスの二人が散歩をしていた。俺は二人に駆け寄り声を掛けた。
「すいません! 凛を見ませんでしたか?」
「凛さんですか、さっき泣きながら向こうに走っていきましたよ」
「うん、ものすごい勢いだったな。何かあったの?」
「ええ、ちょっとした行き違いというか、なんというか」
「それは駄目だなー、ちゃんと好きな相手にはいつもまっすぐ向き合わなきゃ」
「はぁ…」
 こんな時まで姉御肌を出すとは、ある意味尊敬に値する。
「クリスさん、今はお節介している場合じゃないでしょ」
「そうだった、ほら早く追っかけないと斑君」
「そうですよまーさん、急がないと追いつけませんよ」
「そうですね、ありがとうございます」
 俺は二人へのお礼もそこそこに再び走り始めた。澪に言われた方にしばらく走り続けると、小さな岩場があった。その影を覗くと、凛がうずくまっていた。俺は静かにそばによると、黙って横に座った。
「どうしたんだ今日は?」
「……」
「まだ朝のことを引きずってるのか?」
「…そういうわけじゃないんだけど」
 朝も思ったが、いつになく凛が弱々しい。まさか、あれか?
「それじゃどうした、体の具合でも悪いのか?」
「そういうわけでもないよ、何かねー、すぐ気持ちが昂ぶっちゃって」
「倦怠感とかはないのか?」
「? 別にないよ? 体はいたって元気」
 そうか、ならあれではなそうだ。しかしだとしたら何故こんなにもおかしいのだろうか。
「この島に着てからか?」
「うん、来る前までは何ともなかったから、多分」
「そうか、じゃあきっと慣れない環境で戸惑ってるんだろう。他のHOCSと会うのは、お前も初めてだろう?」
「うん」
「よくわからんが、そういう影響もあるんじゃないか? こうお互い引かれあってどうとかさ。朝も言ったが、お前がお前であるなら俺はかまわないから。あんまりくよくよ悩むな」
「…うん、まーちゃんがそういうなら」
 そういうと凛は、ぎこちなくだが微笑んだ。そして俺に抱きついてきた。
「ねぇ、キスしてもいい?」
「んあ?」
「たまにはいいじゃん、そしたらきっと元気になれるから」
 お姫様のお望みならしかたあるまい。一度凛の目を見た後、ゆっくりと顔を近づけ、そっと唇に触れた。
 たまにはこんなのもいいだろう、落ち込んだ彼女を優しく支える彼氏なんていう、甘ったるい恋愛劇も。俺達ほど相応しくない二人はいないが。
 しばらく唇を重ねたまま動かなかった。どれ程時間が経ったのだろうか、凛から離れていった。
「ん、ありがとう。元気でたよ、まーちゃん」
「それはそれはよかった。じゃそろそろ戻ろうぜ。きっと皆心配してるから」
「うん」
 元気良く立ち上がると、凛は服に付いた砂を叩き落とした。ゆっくり俺も立ち上がると、同じように砂を落とす。
「じゃあ、行くか」
「うん、帰ろう」
 どちらからというわけでもなく、俺達は手を繋ぎながら海岸を歩き始めた。ゆっくりとした歩調で、何も語らず。

「おかえりー、大丈夫? 心配したんだから」
「えへへ、ごめんねー、もう大丈夫だよ」
 あれからずっと待っていたのだろう。入り口で座り込んでいたクリスが、俺達の姿を見るや否や駆け寄ってきた。俺を突き飛ばすというおまけつきで。まったく、今日は朝からこんなんばっかだ。
「その様子だと仲直りしたみたいだね、よかったよかった。もう、こんな可愛い子いじめちゃ駄目でしょ、斑君」
「だそうです、まーさん」
 それはとんでもない誤解である。むしろいつも虐げられているのは俺の方である。
「そうなんだよ、いつもまーちゃんたら私をいじめて。反省してよね」
 もう何も言うまい。人間諦めが肝心である。
 俺が人生に嘆いている横で、クリスが腕を上げた。誰かいたのかと周りを見渡したが誰も目に入ってこなかった。不思議に思いクリスを見上げたみると、どうも時間を確認しているらしい。余程腕が細いのか、腕時計が肘の辺りで留められていた。確かにこれでは腕を上げなくては時間が見れない。だったらもっと細いバンドをつければいいものを。
「もうお昼か。私達は君達を待っていたらすっかりお腹が減ってしまったよ。というわけで一つ罪滅ぼしと思って、一緒にお昼を食べないかな?」
「もうそんな時間ですか。特にすることがなくても、案外時がたつのは早いものですね」
 言われて時間を確認すると、すでに時刻は12時に差し掛かる頃であった。そんなに長いこと凛を追っかけ回していたのか。
「そうだね、私もお腹ぺこぺこだよ。行こう、まーちゃん」
 確かに凛を追って走り回っていたために、腹は減っている。それよりも喉が渇いているかな。一緒に昼を食べたぐらいで、皆のご機嫌を取れるのなら容易い事だ。
「かまいませんよ、それじゃ中に入りますか」
 ゆっくりと腰を上げると、軽く体を伸ばした。気づけばずっと座ったままで話していたため、首が痛い。そりゃ見上げながら話していればそうなる。
「じゃあ行こうか、今日のお昼は何かな?」
 鼻歌を歌いながらクリスが屋敷へと入っていった。それに続き俺達も屋敷へと入る。やれやれとんだ朝だった、午後はゆっくりしたいものだ。 


 食堂へ向かう途中架賀巳と出会い、一緒に食事をすることになった。しかし実際のところ、架賀巳は仕事があるからと辞退したのだが、凛とクリスの二人が強引に誘い、結局架賀巳が根負けしたのだった。
 凛の強引さはよく知っていたが、まさかクリスまでこうも強引とは。よくよく見ていると、この二人が並んでいると姉妹のように思えてくる。似たもの同士だからなのだろうか。だとしたら厄介な話である。
「ふぃーお腹いっぱい」
 食べ終わった凛が椅子にもたれかかり足を伸ばしている。なんともみっともない姿である。
「――り」
「凛ちゃん、お行儀悪いからやめなさい」
 注意をしようとした瞬間、俺を遮り正面に座っていたクリスが凛をたしなめた。
「はーい、ごめんなさい」
 それに素直に謝る凛。普段俺が注意してもなかなか聞かないくせに。だが俺に代わって凛を叱ってくれるのなら、俺は楽が出来て良い。しかもそっちの方が有効ならば尚更である。
 よし、これからクリスがいる時は、全部そっちにまかせよう。そう決心すると俺は箸を置いた。ごちそうさまでした。
「まさかここでこんなものを食べられるとは思いませんでしたね」
「そうだね、毎日豪勢な料理ばかりと思っていたけどね」
「でもいいじゃない。いくら美味しくても、毎日フルコースじゃ飽きちゃうし」
 うんうんと頷く一同。一人架賀巳だけがどんな顔をして良いのか迷い、苦笑している。
「すいません、リリス様の趣味でして」
「別に文句言っているわけじゃないから、むしろ助かるよ」
「うん、私も大好きだし」
 そうですかと、安堵の表情を浮かべる架賀巳。そりゃそうだよな、絶海の孤島にまで呼び出して、飯がラーメンじゃ考えこむよ。実は今日の昼食のメニューはラーメンだったのだ。
 こんな島に住んでいるせいか、リリスは世間の流行にとても敏感であるらしい。そのため、新発売の商品をチェックするのが趣味なのだとか。それが高じて大のインスタント食品好きらしい。さすがにカップのまま出ては来なかったが、食べた感じからすると、日本初のインスタントラーメンではなかろうか。俺も好物だから一向に構わないのだが。
 皆食事を終え、一度リビングに移動した。架賀巳は仕事があると言い別れていった。凛は駄々をこねたが、さすがにクリスは理解を示し、凛を諭した。似たもの同士でも、ここら辺が年の差なのだろう。
 食後はゆっくりしなくてはならない、というクリスの持論により、しばらくリビングでくつろぐことになった。
リビングに到着しソファに座ると、俺はおもむろに煙草を取り出した。考えたら朝から数時間ぶりの煙草だ。そろそろニコチンを摂取しなくては体調に支障をきたす。
 胸ポケットから煙草を取り出し、口に銜える。
「どうぞ」
 横を見ると澪がライターを突き出していた。
「あ、すいません」
 澪から火をもらい一服する。俺が一息ついたのを確認すると、澪も自分の煙草に火をつける。
「澪さんも吸うんですね」
「ええ、たまにですけどね。あいつにはよくやめろと言われるんですが、どうにもね」
「そうだよ、体に良くないんだから吸わないに越したことはないよ。それに周りの人にも迷惑掛けるんだし。ねー凛ちゃん」
 ここぞとばかりに俺と澪を責め立てるクリス。よほど煙草が嫌いのようだ。2m.も離れて声を掛けてくる。そこまで嫌いならば、これからは気をつけないとな。
「うーん、でも私は煙草吸ってるまーちゃん格好良いから、平気だけどな」
「良かったですね、俺もそんな風に思われたいな」
「違いますよ、あいつの場合は自分もたまに吸いたがるから、単におべんちゃら使ってるだけです」
 そうなんですか、とうなずく澪。意外そうな顔をしているが、凛は見た目程可愛らしくない。酒も煙草も、あげくにはギャンブルにまで手を出している。中毒ではないことと、薬には手を出さないのが救いだが。
「なんですってー!」
 2m.先から殺気を感じる。同じく感じたのであろう、澪の顔も強張っている。恐る恐る殺気が放たれている方を見る。
 そこには一人の般若が立っていた。
「凛ちゃん! あなたまで何やってるの! 折角の可愛い体を壊したいの!」
 もの凄い勢いで凛を叱るクリス、殺気の持ち主は彼女だったのだ。凛が煙草を吸っているということが、彼女の逆鱗に触れたのだろう。
「え、えーと…、そ、それはね…」
「言い訳は聞きません!」
「ふえーん!」
「あ、待ちなさい!」
 あまりの剣幕に恐ろしくなったのだろう、凛が部屋から逃げ出した。それを追いかけクリスも部屋を飛び出す。残された二人は呆気に取られたまま、しばらく固まっていた。
「……あち!」
 煙草が短くなり、指先を焦がした。ただおかげで正気に戻れた。俺が煙草をもみ消すと、澪も慌てて火を消す。お互い二本目の煙草に火を点けると、大きく吸い込み、吐き出した。
「…いやー、凄いですね」
「…全くです、おかげでゆっくりと吸えますけど」
 何か過去に嫌なことでもあったのだろうか。あの怒り方は尋常ではない。これからは彼女の前では吸わないようにしよう。
 しかし、あれじゃまるで姉というよりお母さんである。
「あら、こんにちは」
 二本目の煙草を吸い終わり、三本目を吸おうかと迷っているところにリリスが現れた。後ろには黄泉も一緒にいた。
「私達もご一緒してよろしいですか?」
「どうぞ、リリスさんもお吸いになられるのですか?」
「ええ、多少。黄泉さんは?」
「いえ、私は吸いませんので」
「そうですか、では失礼して」
 ゆっくりとソファに座ると、懐から煙管を取り出した。
 煙管とはまた古風な、しかしまた似合っているのも事実である。火を点けると、煙管の先から紫煙が立ちのぼる。なんとも様になっているではないか。まるで一枚の絵画のようである。
 本当にこの人は何をしても様になる人である。いつかはこうなりたいものである。
「リリスさん、疑問があるのですが、聞いてもよろしいですか?」
「何ですか澪さん? あまりプライベートな事はお答えできませんよ」
 疑問とはなんだろうか。この人は確かに不思議なところが多いが。
「HOCSは皆パートナーが必ずいます。でもリリスさんもパートナーを見た事がないのですが、どんな方なのですか?」
 言われてみればそうである。HOCSは必ずパートナーを必要とする。凛には俺が、黄泉には澪といったように。だからリリスにもパートナーはいるはずである、いや、リリスはHOCSである以上パートナーはいなくてはならないのだ。
 HOCSは常人では有り得ない演算能力を有するが、その想像絶する能力は本人の肉体、特に脳に大きな負担を与える。
 人間は自らの持つ能力の大半を封印している。だが時折その能力の一部を発揮することがある。いわゆる火事場の馬鹿力というやつだ。しかしこの能力を常に発揮し続けていれば、人間はあっという間に廃人になるか肉体が崩壊してしまう。そのため肉体の防衛本能により、普段はその能力の一部のみを使っているのだ。
 だがHOCSは科学の力により脳に限定されているが、人間の持てる能力のほとんどを使用可能にしている。そのため、そのままにしておけばあっという間に良くて廃人、運が悪いと死んでしまう。
 そこでパートナーの存在が出てくる。HOCSは自ら一人パートナーを選び、脳で繋がるのである。HOCSとそのパートナーは常に脳内ネットワークで繋がっており、その負担を分け合っている。これにより、HOCSは能力を使い続けても普通でいられるのである。しかしHOCSは能力を使用できるが、パートナーは何も起こらない、ただ脳に負担を受けるだけなのである。なんとも理不尽な話であるが、生きた最高機密に触れられるわけだから、考えようによっては得られるものもある。
 つまりリリスがHOCSであるのならば、パートナーが存在しないのであればリリス自身も存在し得ないわけである。だが今リリスは元気に生きている、ならばパートナーがいるはずなのだが。何か表に出られない理由でもあるのだろうか。
「ああ、その事ですか。そうですね、疑問に思うのも当然ですね。私にもパートナーはいましたよ」
 いました?
「ですが昔不慮の事故で死んでしまったのですよ」
「…!」
「ですからその後手術をしまして、能力を限定して使用できるようにしたのですよ」
「そうだったのですか、すいません失礼なことを聞いて」
「いえいえ、もう昔のことですし。それに皆さんほどではないにしろ、力は使えますから、特に不自由ではないんです」
 そうだったのか。リリスがよく倒れるのもそれが影響しているのかもしれない。それにしても能力を限定しているというのに、凄まじい知識量である。昨日の晩餐の時、話題のほとんどはリリスが提供したものであった。それだけでなく、他の人の話も全て理解していた。HOCSであるのにもの知らずもいいとこのあいつとは大違いである。
「能力のほとんどを知識の維持に費やしてますから、会話には事欠かないのですよ。ただスペックに限界があるため、新しい事を覚えると古い事をすぐ忘れてしまうんですがね」
 それでも一般人よりはましである。羨ましいかぎりだ。
「そういうわけで現在はパートナーはいないんですよ。疑問は解決しましたか?」
「ええ、ありがとうございます。そんなこともあるんですね。まあ当たり前といえば当たり前なんでしょうけど」
「ええ、でも当初は戸惑いましたよ、これからどうしようってね。能力の使えないHOCSなど意味がないですからね。まあ今ではこの島の管理人という仕事を得て、毎日のんびりやってますが」
「そんなことはないと思いますけど、リリスさんならたいていの事はこなせそうですし」
 確かに、リリスの知識と教養を持ってすれば出来ない事などなさそうそうである。
「それがなかなか大変なんですよ。一時期はカウンセラーなんかも目指したんですけどね」
「へー、カウンセラーですか、すごいじゃないですか」
「でも実際患者さんを扱うと、うまくいかないものなんですよ」
「何故ですか?」
「どうにも気持ちがわからないんですよ。ほら私達って普通じゃないでしょ。他人の気持ちなんて完璧にわかる人はいませんが、それでもなんとなくはわかるでしょ。けど私には理解出来ないんですよ、この力のせいか」
 なんとなく理解出来る。この世に知らない知識はなく、肉体的な面では弱いにしろ、頭脳面では負ける事を知らない。そのため、普通の人のように脆弱な心を持ち合わせていないからだ。それこそリリスのようなことがない限り、挫折や絶望などとは無縁の者達であるから。
「一度見た患者さんには、あぁ、と言っても学生の間の研修の時ですが、それでもたくさんの患者さんを診ましたよ。過食症、拒食症、躁鬱病、解離性同一性障害、ナルコレプシー、後記憶喪失なんかもいましたっけ」
「ナルコレプシー、解離性同一性障害? 前者は確か睡眠障害でしたっけ」
「ええ、なかなか詳しいですね、斑さん。睡眠に対する障害全般を指すんですけど、先天的に障害を持っていたり、後天的な場合もあるんです。その患者さんの場合はストレスからくる後天的なものでしたね。それと解離性同一性障害はいわゆる二重人格というやつです。それの医学名なんですが、私が診た患者さんは4人ほど他人格が存在したので、多重人格ですかね」
「へー、すごいですね。でもそれでしたら何がわからないんです? 原因が分かっているのに」
「原因は分かっているんですけど、何故それを悩むのかが理解出来ないんですよ。ゆえに的確なアドバイスも出来ないもので」
 なるほど、異常なまでに強靭な精神を持った彼女達には、一般人の心の機微など理解できないだろう。普通の人が挫折、暴走するような出来事に出くわしても、彼女達なら片手で枝をはらうように気にも留めないに違いない。
「そんなわけでそれもあきらめたんですよ。色々やりましたが、どれも上手くいきませんでしたね、今はなんとかやってますが」
「…リリスさんも大変なんですね」
「黄泉さんこそ大変でしょう、小説家なんですから。身を削るお仕事なんですからね」
「いえ、そんなでもないですよ、私の場合は。のんびりとやらせてもらってますから。編集者泣かせですけどね」
 そういえば黄泉さんは小説を書いているんだった。帰ったら探してみよう。一期一会というやつだ。
「やっぱりあれなんですか、恋愛小説を書いているそうですけど、体験談を元にしてるんですか?」
「そ、そんなことはないですよ!」
 顔を真っ赤にして否定する。横で澪も照れたように頭を掻いている。どうやら図星のようである。これはなおさら読まなくては。その様子を見ながらにやにやしているリリス、以外に意地が悪いらしい。
 それからしばらくの間、皆で澪と黄泉をからかい続けた。こちらに振られるても厄介なので、俺もひたすら話を振り続けた。凛は何気に振ってほしいらしく、終始うずうずしていた。まったく困った奴だ。
 そんな取調べ劇は夕方まで続いた。

 気づけば日も傾き、西日が目に刺さってきた。例のごとく凛が空腹を訴え、一同夕食を食べるため食堂へ向かった。
 リリスはやっておかなくてはならない仕事を思い出したと言い、一度自室へ戻った。
「リリスちゃん行っちゃったね、せっかく皆で一緒に食べようと思っていたのに」
「簡単な仕事だからすぐに戻ってくるって言ってましたから、先に頂いてましょう。それとも私達だけでは不満ですか?」
「そんなこことないよ! 意地悪しないでよー黄泉ちゃん」
 先ほどリリスに苛められた腹いせだろうか、凛を苛め続ける黄泉。見た目は大人しそうなのだが、時折見せる笑顔が怖い。華やかなまでの笑顔なのだが、いかんせん目が笑っていない。その顔を見せられたら、一同低頭するしかない。…この人には逆らわない方が良さそうである。
 4人が食堂に到着すると、そこには在膳と人夢がいた。なんとも珍しい取り合わせである。
「やー、君達も夕食の時間かい?」
「うん、もうお腹ぺこぺこ」
「そうかそうか、今日の夕食もとても極上のものだよ。良かったら一緒にどうだい?」
「うん! やっぱりご飯は大勢で食べた方が美味しいもん」
 万年引きこもり女が良く言う。あぁ、でもあいつの屋敷には使用人だけはやたらいるから、食事時は大勢なのかもしれない。
「ほら、まーちゃん早く」
 余計なことを考えているうちに、俺以外の人は全員席に着いていた。慌てて席に着くと、待ち構えていたかのように料理が並べられた。相変わらず無駄のない方々で、傾倒。
 皆の前に料理が並べ終わると、誰からでもなく皆グラスを持ち上げた。そのまま在膳の音頭で乾杯が行われた。何の違和感もなく統率が取れるというのは凄い事だと思う。これがカリスマ性というやつだろうか。
 乾杯が終わると、皆思い思いに料理を食べ始めた。雑談しながらの和気あいあいとした食事だった。しばらく観察していると、あることに気づいた。
 話題の提供、進行は在膳。それに澪、黄泉が答える。そして凛が頓珍漢な事言い暴走、それを突っ込む俺。人夢はそんな凛をたしなめる。といったように完璧な(?)役割分担が出来上がっていた。これが出会って2日目の者達とは思えない。これは在膳のカリスマ性か。それともHOCSゆえのものだろうか?
 食べ始めて30分ほどしたらリリスが食堂に現れた。心なしかやつれている様に見えるのは気のせいだろうか。
「お仕事終わったんですか?」
「ええ、なんとか」
「結構大変だったみたいですね、お疲れに見えますが」
「お気遣いありがとうございます、澪さん。でももう終わりましたから平気ですよ」
 とても疲れているとは思えない、優雅な仕草で椅子に座る。リリスの前に料理が並べられると、グラスを掴んだ左手が持ち上げられた。それにならうように皆グラスを持ち上げる。そして再び、今度はリリスの音頭により乾杯が行われた。
 在膳も会社取締役というだけあって、大したカリスマ性を持っている。だがリリスのそれにはかなわない。まるで生まれながらの覇王のようである。
 乾杯はしたものの、リリス以外の者はもうほとんど食べ終わっている状態だった。案の定じっとしていられない凛がそわそわし始めていた。しかたなく、俺と凛は先に失礼することにした。
「じゃあまたねーリリスちゃん」
「はい、また」
 去り際一同に会釈すると、俺は凛の後を追った。
「それで、どうするんだ」
「そうだねーお腹はいっぱいだし、ちょっとゆっくりしようか。まーちゃんも煙草吸いたいでしょ」
「まあな、じゃあリビングにでも行くか」
 食後の休憩ということで、俺達はリビングに向かった。ソファに座り、しばらくぼーっとしていると人夢が姿を見せた。
「あれ、人夢さん。他の人はどうしたんですか?」
「…年長組みはしばらく飲んでるって…」
 おもむろにソファに座ると、煙草を取り出し火を点けた。人夢も煙草を吸うのか、喫煙率高いな。
「人夢ちゃんはお酒飲まないの?」
「あんまり好きじゃないから…」
「そうなんだ。ねえ、それじゃ一緒に遊ばない? 暇でしょ」
「…遠慮しとく。煙草吸いに来ただけだから」
「ちぇ、じゃあ明日は遊ぼうね♪」
「…考えとく」
 灰皿に煙草を押し付けると、だるそうに立ち上がり部屋を出て行こうとした。そのまま出て行くのかと思ったら、突然立ち止まりこちらを振り返った。
「どうしました?」
「…変だと思わないか?」
「何がですか?」
「こう違和感というか…」
「違和感?」
「…いや、なんでもない。…失礼」
 何かを言いかけたが、ドアを開け出て行ってしまった。違和感? 何の事だろうか。特におかしなことはないと思うが。何よりも、何に対しての違和感なのだろうか。
「何だったんだろうね、さっきの言葉」
「さあな、どうもあの人の考えてることはわからん。さて、これからどうする」
「そうだねー、そうだ、今日一度も見てないから、茉莉華ちゃんの様子でも見に行く?」
「そうだな、まさか一日部屋に籠もりっぱなしってことはないよな」
 あながち冗談とも思えなくなり、俺達は茉莉華の部屋に向かい始めた。部屋の前に着き、ドアをノックする。…沈黙。もう一度ドアを叩こうとした時、中から慌しい物音が聞こえてきた。
「…こんなこと前もなかったか?」
「…あったかも」
 大げさな音を立てながらドアが開くと、そこには慌てた様子の茉莉華が立っていた。
「すいません、また仕事に熱中しちゃって、気づくの遅れました」
「それはかまわないんですけど、仕事って朝からですか?」
「ええ、朝ごはん食べてからずっと。…って今何時ですか?」
「もう8時過ぎだけど、夜の」
「え! もうそんな時間!」
 つまりこの人は12時間近く部屋に籠もっていたのか。大した集中力を言うのか、周りが見えなくなると言うのか。
「とりあえず何か食べてきたらどうですか。そんなんじゃ体壊しますよ」
「そ、そうですね。それじゃあちょっと行ってきます」
 そのままふらふらとした足取りで食堂へと向かっていった。途中で倒れなきゃいいが。
「鍵も閉めずに行っちゃったね」
「ああ、でも勝手に入るような人もいないだろうし、平気だろう」
「うん。この様子だと、他の人も忙しそうだし、部屋でゆっくりしようか」
「そうするか」
 さすがに一応女の子であるため、凛の部屋に行くのもまずいと思い、俺の部屋に向かった。部屋に入ると、凛はベッドに横になり、転がりだした。
「うふふふ、まーちゃんのベッド♪」
「何あほなこと言ってんだ」
「だってー」
 呆れながらも俺は、ベッドの端に座る。今日も色々とあったな、でもまだまだ先は長いからな、身が持つだろうか。
「明日はどうする? 特にすることないから、何か決めておかないと困るだろう」
 凛に声を掛けたが全く反応がない。不思議に思い見てみると、小さな寝息をたてながら寝ている凛の姿があった。お前はのびた君か、寝るの早すぎだろう。
 ひっぱたいて起こしてやろうかと思ったが、色々あって疲れたのであろう、ゆっくりと寝かしてやる事にした。布団を掛けてやり、慎重にベッドから離れた。しばらくしたら起こしてやるか。それまでは本でも読んで時間を潰すとしよう。
 鞄から本を取り出し、ベッド脇の椅子に腰掛け読み始めた。


 突然大きな音が響いた。慌てて時間を確認すると1時を回っていた。随分活字の世界に浸っていたらしい。再び音が響く。それに合わせ声も聞こえてきた。
「斑さん! 起きてますか!」
 リリスの声である。さっきの音はドアをノックする音か。しかしこんな夜中に一体何があったっていうんだ。かなり慌てている様子だが。
「…ん、んん。どうしたの、まーちゃん?」
「起きたのか、よくわからん、ちょっと待ってろ」
 凛に声を掛けると、俺は急いでドアに向かっていった。ドアを開けると、そこにはひどく落ち着かない表情のリリスがいた。
「あ、斑さん!」
「どうしたんですか、何かあったんですか?」
「ええ、大変なことに。とにかく来てください!」
「私も行く」
 すっかり目が覚めた凛が寄ってきた。ただ事ではない雰囲気を察し、いつになく真剣な表情をしている。
「よし、どこですかリリスさん」
「2階です、早く!」
 そう言うと走り出したリリスを慌てて追いかける。階段を飛ぶように下りると、遊戯室の前に着いた。
「ここですか、リリスさん?」
「…はい」
 何か入りたくない理由でもあるのだろうか、部屋を前にして怖気づいている。このままでは埒があかないので、意を決してドアを開けた。廊下は薄暗かったため、明かりの点いた部屋はまぶしく、目が慣れるのに時間が掛かった。目が慣れてくると辺りを見回してみた。
 有り得ないものが存在していた。
 趣味の悪い前衛芸術家が制作したオブジェのように、それはそこにたたずんでいた。
 まだ目が慣れていないため、何か勘違いしたのだろうか。
 違う。
 これは目の錯覚なんかじゃない。
 紛れもない現実である。
 それもとびきり陰湿で残酷な現実だ。
 そこには死体が転がっていた。
 それに近づかなくても、死んでいる事は明白だった。
 どこの世界に首を切られて生きていられる人間がいるというのだ。
 恐る恐る近づく。
 それは自らの体から流れたであろう血溜りに浮かんでいた。
 赤い、ひどく赤い。
 これは人間なのだろうか?
 実は何か他のものじゃないのか?
 だって手も足もないじゃないか。
 これじゃあ、ただの肉の塊に過ぎないではないか。
 世界が反転する。
 世界が赤く染まる。
 全てが赤い。
 壁も、天井も、床も、机も、椅子も、俺も。
 全てが溶け出す。
 ありとあらゆるものが溶けて赤くなる。
 赤。
 赤、赤。
 赤、赤、赤、赤、赤、赤!!

「まーちゃん!」

 声に体が反応した。体が震えだす。止まらない、立っていられなくなる。倒れそうになった瞬間、体が暖かいものに包まれる。
「まーちゃん」
 震えが少しずつ収まってくる。ゆっくりと息をする。
「もう大丈夫だから、まーちゃん」
 体を包む、柔らかく暖かい感触。生きているという感触。大きく一つ呼吸する。
「まーちゃん?」
「…ああ、もう平気だ」
 体の震えはすっかり止まり、意識もはっきりとした。凛に笑顔を向けると、俺はゆっくりと後ろを振り返った。
「…これですか?」
「…はい、さっき偶然見つけて」
 これは尋常ではない。なんたって死体だぞ。しかも首に両手足のない、ばらばら殺人だ。辺りを見回すが、あるのは胴体だけで、切断された首や手足は転がっていなかった。
 よく調べてみる。もしかしたら実はマネキンか何かで、質の悪い冗談ではと思ったが、間違いなく人間の体であった。
 体の作りからして、女性である事には間違いなそうである。
「…これ…誰なのかな?」
「!」
 そうだ、冷静になったつもりだったが、まだ動転していたらしい。ここは都会のど真ん中なんかじゃないんだ。絶海の孤島、暁の眠らぬ島なんだ。
「リリスさん! 急いで皆を起こしに行かないと!」
「え?」
 普通の人間では訪れる事の出来ないこの島。謎の人物が紛れ込んでいるなんてことは有り得ない。だから死体になることが出来る人間も限られている。俺達の誰かに間違いないのだ。
「これが誰かを確認しなくては! 急いでここに集めてきてください!」
「そ、そうですね! じゃあ私は1階に行きます」
「お願いします。凛は3階に行って、茉莉華さんを見てきてくれ。俺は2階を回るから。二人とも気をつけて!」
 二人とも頷くと、それぞれ走り始めた。それを確認すると俺も2階にいる人達の所に向かった。